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イベントレポート

[特別実演]写し絵と幻燈の実演 日本のアニメーションのルーツを探る

2007年1月27日、文化庁メディア芸術祭10周年企画展「日本の表現力」で行なわれた「写し絵と幻燈の実演 日本のアニメーションのルーツを探る」。日本独自の発展をとげた、ストーリー性豊かでカラフルなアニメーションの元祖「写し絵」の実演には、貴重な機会をひと目見ようと幅広い年齢層の方が来場しました。

■写し絵の始まり

実演の開始にあたって早稲田大学教授の草原真知子氏が挨拶を行ないました。映像の歴史研究もされている草原氏は写し絵、錦影絵の再評価、振興に関わっており、昨年からは文化庁の助成を得て錦影絵と写し絵の資料を研究しているとのこと。 この日の実演ではまず最初に写し絵の復元と上映をされている劇団みんわ座の山形文雄氏、田中祐子氏、相原美奈子氏の3人の方々によって写し絵の上映と説明が行なわれました。

山形:「写し絵の始まりは江戸です。牛込神楽坂で、享和3年(1803年)3月にはじまりました。演目に江戸っ子らしい芸風が反映されているのはそのためです。また5台の幻燈機を使うと5つの登場人物を使うことができるので演芸としての要素もあり、実際の操作も人の手で行なうので、ヨーロッパにはない独自の文化として非常に早い段階から高いレベルで演じられていました。今日は上演することが主な目的ではなくて、写し絵のしかけを見ていただきたいので横から見てください。200年前は、実際こんなふうにしてやっていました」と山形氏が説明すると同時に観客の方はいっせいにスクリーンの裏へ。写し絵の上映につかう種板(絵が描かれたガラスの板)を実際に手にとってみる場面も見られました。


■キャラクターアニメーションとしての写し絵

「海外からアニメーションが入ってきて、いまの日本のアニメになった過程と、西洋の幻燈が日本で独自の方向に発展していった過程は似ている」と語る草原氏。写し絵が日本において「キャラクターアニメーション」として発展していく過程とはどのようなものだったのでしょうか。

草原:「西洋から入ってきた幻燈機は日本的な方向性に発展しました。特に違ったのは、1台の幻燈機で1つの画面を写すのではなく、何台もの幻燈機を使って「キャラクター」をひとつずつ扱ったことです。
背景を写している幻燈機は台の上に置いて、人が手で持ってキャラクターを動かす。そして演じるのは文楽や歌舞伎など共通の日本の物語。すなわち、日本の写し絵は西洋と違ってキャラクターアニメーションとして発達したんです。
また、その後西洋の幻燈は大きなガラス板を使って、大きい画面に映してそれを劇場で大勢の人が見られるので、西洋では映画に発展していった。それに対して、日本の場合は「和風の『演芸』」として発展していった。海外からアニメーションが入ってきて、いまの日本のアニメになったのと同じようなプロセスだといえます。つまり日本人のもっている視覚文化が、西洋から入ってきた技術に働きかけて創り出したというところに、今のアニメーションとの相似性が見られるかと思います」

また草原氏は日本において独自の発展を見せた西洋の幻燈と映画をめぐって、あるメディアの登場とともに他のメディアが衰退するということではなく、そこにはメディアが共存する時代があったと語りました。

草原:「明治になってから、西洋の幻燈機というものが日本にあらためて入ってきました。当初は写し絵とはまったく別のものとして見られてきたのですが、じきにみんな実は同じものだとわかってきた。それから映画がはいってきたんですが、映画が入ってきたから幻燈機が廃れたというわけではなく、両方が共存していく時代というのがあるんです。現在でもその映画を見たらDVDを家で楽しむように、昔も同じで、映画館で見る映画だけではなくて、自宅で見たいあるいは自分たちで作っていきたいという気持ちがあったんですね」

■応用し、発展する日本の表現力

続いて松本夏樹氏が明治末の日本製の幻燈機を使って当時のアニメーションを上映しながら幻燈の歴史を語りました。

松本:「西洋幻燈は明治10年代に日本に持ち込まれました。最初は明治政府が「文明開化」の意識を啓蒙するために全国の師範学校に配置しようとしたのですが、機材が高すぎて当時の文部省が手に負えなくなってしまい民間に委託しました。そのうちに幻燈機の値段が安くなり、明治期20年代の家庭では、ブリキ製の小型幻燈機で楽しむようになりました。もちろん当時は電気はなく、家庭に送電はされていないので、大変暗い中で、ランプなどの非常に低い弱い光源の中で楽しんだようです」

また松本氏は映画が日本にもちこまれ、発展していった当時の様子を次のように説明しました。

松本:「最初に映画が日本に入ってきたころ、上映は全て巡業で行なわれていました。しかもフィルムが可燃性のセルロイドフィルムのため値段が高い。カメラを使って撮影した実写は独占されていてなかなか世にでなかったのです。
すなわち今でこそ、映画はきちんと産業としてシステム化されていますが、入ってきたころは混沌とした状態であったといえるでしょう。
そのなかで日本の映画は写し絵の動きを再現することで発展していきました。つまり、欧米の映画をそのまま真似するのではなく日本人はそれまでにあったものを応用することで、新たな文化を吸収していったのです。これは日本の表現力と思っていいでしょう 」

実演の最後を草原氏はこう締めくくった。

草原:「日本人はビデオやDVDというメディアが存在するずっと前からどのように映像を楽しむということを考えていました。西洋から新しい技術が入ってきては、日本人に合うように使われてきたり、映画館だけでなくて、家庭でも上映するということが続いていたという豊かな映像文化がありました。そのなかから日本のアニメーションが出てきたということがわかったと思います」

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