2007年1月31日、文化庁メディア芸術祭10周年企画展「日本の表現力」において、シンポジウム「少女マンガの半世紀」が行なわれました。「日本の表現力」展実行委員の里中満智子氏の司会のもと、わたなべまさこ氏、竹宮惠子氏、安野モヨコ氏がパネリストとして参加し、それぞれがご自身の体験をふまえて少女マンガの歩んできた道のりを振り返りつつ、これからの少女マンガが目指す方向について語り合いました。
■少女マンガの歴史は平坦な道のりではなかった
半世紀以上の歴史がある日本の少女マンガ。まず、各時代のヒットメーカーであるパネリストの方々から、デビュー当時に描かれた絵を見せてもらいながら、当時の状況を伺いました。わたなべ氏は1952年に貸本でデビュー。当時、原稿は買い取りで、作者に戻されることはなかったため、原画が手もとに残っていません。そこで、1955年に発行された貴重な単行本をお持ちいただきました。
わたなべ:「当時、女性がマンガ家になるのはめずらしかった。雑誌社を何件も回りましたが、当時の雑誌はあくまで挿絵中心でしたし、駆け出しの私は相手にされなくて。結局、貸本に原稿を持ち込みました。夜店やおもちゃ屋さんで売っていた "赤本" がB6版の "貸本" という形になって、1冊5円から10円で借りることができたんです。今で言うレンタルビデオのような感じでしょうか。貸本に描いていたものの、やはり雑誌に描くことがステイタスでしたので、どうにかして雑誌の連載が取りたいと思っていました」
竹宮:「デビューは1968年です。当初は、男の子でも女の子でも読める児童マンガが描きたかったんですね。私自身は、荒波をくぐってマンガ家になったという感じではなかったんですけど、少年向けのマンガの方が視野が広かったので、果たして自分は少女マンガで活躍できるのかとても心配でした。"女性に少年マンガが描けるものか"と言われた時代で、私も自分の線が弱いので少年マンガに進むのをあきらめたんです」
安野:「デビューは1988年です。子どもの時から身のまわりにマンガがあって、大好きだったので自分でも描きたいと思っていました。少女マンガ家という職業がすでに確立されていたので、そこに向かっていくということに違和感はなかったですね。家族の反対もまったくありませんでした」
里中:「私や竹宮さんの時代は、マンガ家になると言うと "正気に戻れ" と言われる時代で、わたなべ先生の時代は“そもそも女が仕事をするなんて”という時代でした。この半世紀で日本の社会も変わったし、女性の立場も職業に対する考え方も変化しましたね」
■時代とともに変化する表現の幅
無事にデビューを果たしても、ヒット作が生まれなければ安心して生きていくことができないのが、マンガ家の世界。プロであっても、明日は読者に見放されるかもしれないという不安と常に戦いながら創作活動を続けています。そこでパネリストの方々のヒット作について伺いながら、その時代背景を探りました。わたなべ氏の絵の特徴は、白やベージュという淡い色の配色。「昔は、せっかくカラーなんだから赤やピンクといった派手な色を使えと言われることが多かった」と里中氏が語ると、「私もそう言われましたけど、自分の好きな色を通したんです。薄い色を印刷するのは難しい。おかげで "印刷所泣かせ" と言われてました」とわたなべ氏が振り返る場面もありました。
わたなべ:「昔は男性の作家が少女マンガを描くことが多かったんですが、男性作家が描くと、朝起きて学校に行くときも、夜寝るときも、1日中着ている洋服が同じ。しかもとても硬そうなフトンに寝ている。やっぱり女の子はそうじゃないと思いまして、フリルの付いたネグリジェとか、天蓋のついたベットなどを描いていました。それは少女の夢というよりも、自分の夢でもあったんです。何もない時代でしたから」
竹宮:「女の子にとって性は超えるべき大問題。ベッドシーンをちゃんと描く人がいなかった時代に、ベッドシーンが冒頭から入るという作品を描きたかった。しかも男女ではなくて、男の子同士であると。それが『風と木の詩』です。私には固い信念があって、この作品を描きたいと思ったわけですが、それを人にわかってもらうのは難しかった。冒頭を見せただけでダメって言われてしまう。でも少女マンガでやらなければ意味がないと感じていました。そこで、まず今連載している作品をヒットさせたら、次に連載できるかもしれないと思い、努力して前作の人気を上げて、掲載を実現させたんです」
安野:「私がデビューした頃は、少女誌ではベッドシーンはダメでした。でも高校生のリアルな恋愛を描くときに性は避けて通れないテーマ。そこが難しいなと感じて、設定物を描くようになりました。少女誌を出て『ハッピーマニア』を描いた後、ティーンが読む雑誌でもベッドシーンが扱われるようになっていて、今度は反対に度肝を抜かれました」
里中:「結果として『風と木の詩』は表現の幅を広げた作品になりました。ただ、日本の場合は宗教的な制約もありませんし、最終的に読者が選べばいいということで表現の自由がかなり許されているわけですが、そのぶん作者が責任を持って描かなければなりません。日本のマンガはいまや世界から注目を浴びるようになっていますので、期待だけなく描く側の責任感も伴ってくると思います」
■少女マンガから脱却する少女マンガ家たち
現在は、少女マンガ、少年マンガというジャンルがあいまいになり、パネリストの方々もかつての「少女マンガ」の枠を超えて活躍しています。定年がないマンガの世界で、ひとりの作家がずっと描き続けていくことの意味とは何か。人間の本質に迫っていくと、女性の美しさやかわいらしさの裏には、女性特有の恐さも存在します。人間的に熟したマンガ家だからこそ描ける世界があるのです。
わたなべ:「最近では、女性のもつ妖しさ、人間は誰でも毒をもっている、そうしたことを象徴したマンガを連載しています。中国の古典を題材にした『金瓶梅』もやっと半分まで進んだところですが、まだまだ終わりが見えません。皆さんが飽きないように続けていきたいと思います」
里中:「わたなべ先生はお若いですが、年齢を知ったら皆さん本当に驚くと思いますよ。年だからとなんでも年齢のせいにする人は、見習って反省していただきたいと思います(笑)」
竹宮:「『時を往く馬』は、馬のおもちゃが半世紀に渡ってさまざまな人の手を経ていくという物語を、ページを区切った短編集の形でまとめたものです。今、大学で教えていることもあって、学生たちの参考になるようにと思って描きました。あとは週刊誌の小説に挿絵を描いています。こちらは筆で描いたり、トーンを使わなかったりと、マンガとは違った描き方をして楽しんでいます」
安野:「『働きマン』は読者も大人の男性が中心ですから、かわいいものが描きたくても、この作品でフリルを描くわけにいかない。おじさんを山ほど描いた反動でレースを描きたくなったら、少女誌で描いている『シュガシュガルーン』で発散するようにしています。私自身は基本的には男っぽい感じなんですけど、『働きマン』は背景も実際のオフィス、要は直線が多いんですね。そうすると自然のものやかわいいお菓子が余計に描きたくなってくるんです。あと、将来的に連載してみたいのは少年誌。ずいぶん前からさすらいの小学生ものを描かせてくれと頼んでいるんですけど、編集者から "小学生はさすらわない" と断られ続けてまして(笑)」
里中:「そういうわけで、安野さんの“さすらいの小学生マンガ”が読みたいと思う皆さんは、編集部にどしどしお便りを送ってくださいね(笑)」
■クリエイターに必要なもの
「日本が誇る表現力というのは、日本人にとって当たり前の表現に感じられても、じつは非常に自由で平等なんです。性別、年齢、宗教、キャリアにとらわれず、日本の芸術表現は自由に発展してきたと胸を張って言うことができる」と語る里中氏。最後に、これからの少女マンガがもつ可能性や、今後のマンガに期待すること、これだけは伝えておきたいと思うことなど、パネリストの方々から自由に発言していただきました。
わたなべ:「今後はさらにいろいろな形での表現が可能だと思いますので、これまでの半世紀、作家たちが築きあげてきたものがますます発展していくように願っています。私も元気でいるうちは、まだまだ描かせていただきたいと思ってます」
竹宮:「過去のマンガは消費されてしまって、今では昔の作品が手に入らない状態になっています。私自身が読んできたマンガを若い人にも読んでもらいたいという気もちがあるので、ぜひいつでもそういうものが読めるようになってほしい」
里中:「見ることができない作品が多くて、本当に悲しい。過去の作品がすべてあってこそのマンガの歴史ですから、各方面の協力を得て、昔のマンガをデジタルで取り込んで残したいと思っています。そういう機会が実現したら、ぜひ皆さん支えてください。」
安野:「若輩者なので何も言うことはできないんですが、今日こうして参加してみて、同席されている顔ぶれがまさに自分が子どもの頃から読んできたマンガを描いていた方々で、自分にとっての歴史を表しているような感じを受けました。いつか "少女マンガの1世紀" が行なわれたら、生き証人として参加できたらいいなと思います」


