たとえば、ワイングラスをテーブルの真ん中に置いた安心感と、また机の端ぎりぎりに置いた「落ちて壊れるかもしれない」と思う緊張感――この心理の変化はなぜ起こるのでしょう? 私は、ワイングラス自体は変わらないけれどもワイングラスの移動がテーブルの“余白の形”に変化をもたらし、このことで心理の変化に至ったと考えます。
さて、オブジェクト(ここではワイングラス)などの対象物には注意や意識をはらいますが、オブジェクトの存在しない空間(つまり余白:ここではワイングラスの置かれるテーブル)には注意や意識をはらわない人がいるとします。そういう人には“余白の形”は見えません。
オブジェクトはもちろん人へ響きますが、余白も人へ響くのです。これらはふたつでひとつです。私は、現代の日本では余白の形を察する感性が非常に鈍くなっているように感じています。ワイングラスにとらわれてテーブルが見えなくなっているということです。すなわち人と人との相互の気配(余白)を感じることができなければ残念ながら響きません。私のいう余白とは単に余ったところという意味ではなく、気配や間(ま)などの意味です。
文字のレイアウトをするとき、例えばヘルベチカのような名書体であっても素人がレイアウトするとしっくりこない場合があります。これはヘルベチカが悪いのではなく余白の形が悪いのです。いくら優良なオブジェクトであっても配置される空間の余白の形をデザインしなければダメなのです。どんな厳選素材をもってしても調理がうまくないと美味しくならない、ということと似ています。オブジェクトを取り巻く余白や気配、間。私はそこに創造の源泉が隠されていると思っています。
オブジェクトだけにとらわれず余白の形の変化を注視していけば、迷うことなく適切に答えにたどりつくのだと思います。ただし答えを導き出すには身体性を伴う直感力が必要です。音楽家の絶対音感や蕎麦職人の蕎麦切りの太さが同じであること、野球選手のヒットを打つ能力のようなことです。才能を論ずる前に鍛錬がなければ得難いものです。
2009年、ggg(ギンザ・グラフィック・ギャラリー)において行った展覧会(※)は、相互作用の関係や余白を感じるということをテーマにしました。本展ではコンセプトの文章や展示作品の説明はできるだけしないように試みました。来場者が自身の身体感覚のみで作品と対峙するようにし、余白の形をどのようにして見いだすのか、あるいは見いだせないでいるのかという実験の場としたのです。人は、強く概念化しているとオブジェクトだけしか見えません。本展の展覧会名は「北川一成展」ではなく「北川一成」でした。展のつかない展覧会名は、具体的な者を指すと同時に、より一層その者を取り巻く存在や関係が概念的にかつ謎めいて示唆されてくるのではないかと思います。「私であり私でもない」インタラクティブな場、そういう思考がこの展覧会名にこめられていました。本展は非常に良い反応が多数ありましたがやはり同時に批判もありました。議論が多くあったことは非常に良かったと思っています。実験の場につきものの反省ももちろんありましたが、それらは、関西で行われる巡回展で生かしたいと考えています。
余白が見えるか見えないかは、そのものが対峙する気配や間を感じることができるかどうか、だと思います。
(※)本展の協力・賛同者(敬称略)
株式会社内田洋行、株式会社エーゼット企画、エプソン販売株式会社、有限会社喜喜、有限会社協立工芸所、株式会社サンフジ、新津保建秀(写真家)、株式会社ジャイロウォーク、Semitransparent Design、有限会社創和、株式会社ダイム、東京リスマチック株式会社、ヨシモリ株式会社、ならびに株式会社宣伝会議の私のクラスの生徒達
































