撮影:丸尾隆一(YCAM)
写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]
photo:Ryuichi Maruo (YCAM)
Courtesy by Yamaguchi Center for Arts and Media [YCAM]
電子音楽とメディアアートの関係について考えてみると、その2つの距離は遠く、それは中間に位置するサウンドアートという言葉のこの文脈でのポジションの不明確さにも起因しているように思う。言うまでもなく現在において全ては多義的であり、例えば電子音楽とサウンドアートにしても、古典的な分類では電子音楽は現代音楽の延長線上にある電子メディアを使った音楽、サウンドアートは美術的な文脈から派生した音楽の時間構造ではなく音響そのものに着目した「非アカデミックな」音楽とされているが、こんなことを書いていても仕方がない。大雑把に言って電子音楽は現代音楽の一部で音程関係や楽曲構造といった古典的なフォーカスを遵守したものが優勢、サウンドアートはノイズ、エレクトロニカ、テクノ/ミニマリズムとの関係で考えるべきで初期の音響彫刻などは後退している。
そしてサウンドアートと現在呼ばれるシーンではラップトップなどによるライブパフォーマンスとサウンドインスタレーションの2つが活動の大きな軸となっており、後者がメディアアートの一部として分類されることから結果的にサウンドアートはメディアアートに分類されることが多いのだが、果たしてそれでいいのだろうか? また、その前にそもそもメディアアートは美術なのかという問題がある。
言うまでもなくメディアアートは現代美術に対するオルタナティブという側面が思想/政治的にはある。これについてもフィックス、インタラクティブ、テクノロジーといった言葉で書かれてきたし、ここでも書くことは可能だが思い切って割愛してみたい。
撮影:丸尾隆一(YCAM)
写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]
photo:Ryuichi Maruo (YCAM)
Courtesy by Yamaguchi Center for Arts and Media [YCAM]
つまり問題はこういうことだ。現代美術が美術なのは自明だとして、しかしそれに対するオルタナティブであるメディアアートは美術館でやっていても美術ではないというのは現状厳しいのではないだろうか。というかそういう親切な解釈が流通して機能する時代は終わった。もちろんICCやYCAMのような特異・先進的なメディアアートセンターは例外として、美術館という枠組みで展示されるものは当たり前だが美術として括られ、美術を軸とした規模感としての一般的な認識は美術>現代美術>メディアアート>サウンドアートとなり、音楽を軸とした場合は現代音楽>サウンドアート、もしくはエレクトロニカ>サウンドアートといったところだろうか。
ただそうした分類とは別にメディアアート(ここでは視覚中心のものをそう呼んでみる)が現代美術的コンテクストを否定できない理由はある。それは空間構成が作品の中で占める割合の大きさだろう。つまりコンピュータの画面で作ったビジュアルを巨大なプロジェクターで投影すれば、水で希釈したように解像度も伝達可能情報量も落ちる。そのときに発動されるのが空間構成の技術であり、それは「どうプロジェクションするか」「どうスクリーンやモニター、オブジェクトを配置するか」といった作者/鑑賞者という「人間」が介在せざるを得ない非常に古典的なフォーカスである。
言うまでもなく多くのメディアアートにおける空間構成の参照源は現代美術のそれと大差はない。というか空間構成という作為自体が作品というコンテンツをいかに効果的に展示するかというコンテンツ/エフェクトという古典的な二重構造を生成するわけで、それに前述した作者/鑑賞者という二重構造が重なるとき、美術であることも現代美術であることも否定するのは極めて困難だろう。もちろんそれは実空間での展示という「いまここ」性を前提とした場合、ある意味不可避とも言える。ではその「いまここ」性は「メディアアート」にとって本当に必要なものだろうか?
美術館のような実空間での展示の優位性は観ることのリテラシーのトラップに陥ることなく、「ここでしか体験できないもの」を提示出来ることにある。視覚中心のメディアアートにおいてはそれは「あり得ないくらい大きいプロジェクション」や「あり得ないくらいたくさんの~」といったところだろうが、それらは「崇高」やミニマリズムのバージョンアップには貢献できるが、そうしたエフェクト自体が現代美術的なのは言うまでもない。そして空間構成の技術自体は有効に作用していることも多々あるので否定的な側面ばかりではないのだが、そうしたエフェクトの優位性に対してコンテンツそのものの情報密度、精度が問題になることは意外なほど少ない。そしてインターフェースとはいつからかエフェクトとほぼ同義語になってしまった。
ここで僕が最近発表した『MOUSE MUSIC』という作品を参照したい。これはストックホルムが拠点となっている「beam me up」というインターネット上のミュージアムの委嘱によってつくられたもので、2005年から複雑系研究者の池上高志(東京大学教授)と継続的に研究、開発している非線形科学の応用による「第三項音楽」の音色生成、演奏、即興がweb上でマウスひとつで出来るという作品である。もう少し詳しく書くと、同時に最大3つまでの周期の異なる音色の生成、ループが可能であり、ドラッグした面積がループの長さを、縦軸が音量、位置が音程を決定している。またこの作品には実空間でのアクセスは存在せず体験者はwebを通して個人的に作品にアクセスする。そのことからこれは作品とゲーム、音楽ソフトの中間のようなものになっている。
僕がこの作品をつくったときに考えたのはデジタルテクノロジーを使った作品においてやはり重要なのはコンテンツそのものではないかということだ。
種明かしをすると、この『MOUSE MUSIC』はどうマウスでいじっても第三項音楽、つまり僕のデジタルミュージック作品らしく鳴るように出来ている。これは実際に体験者が演奏する音楽はおよそ6分半の僕自身の作曲作品の一部であり、体験者は僕が予め作曲した極度に非反復的な構造をもった音楽を部分的に切り取り、変型、ループすることで「第三項音楽」を生成、演奏しているかのような錯覚が起きるというわけだ。ここで作品の質を決定しているのはたったひとつのオーディオデータ=僕の作曲作品である。その質が高いか低いかというジャッジは別として元のデータという不可視な部分にのみ作曲という「人間」が存在していることによって、この作品は成立している。もしもこれが毎回ゼロからのサウンドジェネレートだとしたらそれは単にweb上にある不完全でランダムなノイズ生成ソフトにしかならず、作品としては成立しないだろう。
つまりここ数年流行している「データの不可視性」が有効な意味を持つのは実空間の展示よりむしろwebのようなやはり不可視なメディアなのではないだろうか? 美術館に来た鑑賞者の「実空間での展示」に対する満足度をどう満たすか? といった制約から一度自由になったときに、メディアがコンテンツ=作品に影響を及ぼすという本来的な意味でのメディアアートが可能になるだろう。また言うまでもなくwebブラウザ、コンピュータに向き合う個人にとって視覚、聴覚といった境界はないので、ここでは視覚優先的な印象が強いメディアアートという言葉よりもテクノロジーアートと呼ぶことにしよう。
ともあれ、メディアとしてweb上のデータミュージアムには大きな可能性を感じているので、機会があればATAKでキュレーションして実現したいと考えている。
撮影:渋谷慶一郎
at transmediale 2008(Germany)
とはいえ全てweb上でやればいいのでは? というような単純な話ではもちろんないわけで、実空間におけるテクノロジーアートの展開は可能か? ということについて考えてみよう。実空間、つまり美術館でのテクノロジーアートの実践として最も有効なのは三次元立体音響などに代表される「自然を超えた」体験を聴覚的に作り出すサウンドインスターレションだと考えている。
これは僕自身がサウンドアーティストであることとは別の問題として捉えてもらいたい。コンテンツにフォーカスした場合、デジタルコンテンツによるビジュアルデータは大概のプロジェクターによる投影よりもコンピュータのデスクトップで観たほうが解像度が高い。つまりもしコンテンツに精度と意味があればコンピュータで作った映像、画像をそのまま鑑賞者のデスクトップの画面に提示するのが最も直接的かつ本質的だろう。
しかしサウンドの場合はどうか? 僕が池上高志と2006年に発表したfilmachine(写真)という三次元立体音響による作品では一周8個×三層の24個のスピーカーと床下に埋め込まれた重低音を担当するサブウーハーシステムとHuronという建築音響の仮想残響生成プログラムによって上下左右の音の運動全てが「作曲」され「10メートル前方から音が自分に向ってきて身体を突き抜ける」といった超自然的な知覚体験が実現された。これは実際的な意味で「そこで体験しないと」という「いまここ」性が必須である。
音が大きいだけのスピーカーシステムなら、大概の美術館よりもコンピュータとそこそこのモニタースピーカーを自宅に用意したほうが体感度は高いだろう。しかし前述した三次元音響のような作品は「鳴っているオーディオデータ」と多数のスピーカーの関係が不可分であり、事実上自宅で24個のスピーカーをツリー上に配置するなどは不可能なことから、そこへ足を運ばないと体験できない作品となっている。また、この「自然を超える」というのは概念的には複雑そうだが現象的にはディズニーランドや『アバター』のようなアミューズメントと限りなく近い。つまり、テクノロジーアートとメディアアートセンターはリミットを外した極度に奇形なアミューズメントとしての進化をも内包することで新たな局面を迎えることが出来るだろうし、この情報環境の中で生き残るにはその方向性をカバーするのは必須かと思われる。
そうした意味で2010年10月5日にICCで発表する『for maria 無響室バージョン』は音と光による知覚の限界と体感的アミューズメント、三次元音響の自律生成が混在した、そこでしか体験できないテクノロジーアート作品となるだろう。しかし同時にこれはパンドラの箱でもある。
































