アール・ヌーヴォー
Art Nouveau

エミール・ガレ
『ひとよ茸ランプ』
(北澤美術館所蔵)
フランス語で「新しい美術」を意味する。19世紀末から20世紀初頭にかけて、西ヨーロッパ全域で広く流行した装飾デザインの総称。当時の流行であったジャポニズムの影響が指摘されることもある。その名は1895年、サミュエル・ビングがパリで開いた美術店「Maison d’art nouveau」(デザインはベルギーのアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ)に由来し、1900年のパリ万博に際して、パリ市の依頼を受けたエクトール・ギマールが市内の地下鉄の入り口を植物状の鋳鉄によって装飾したことをきっかけに、新素材である鉄やガラスを積極的に活用し、また優美な曲線や曲面を特徴とするこの新しい様式が広く普及することとなった。ほかにはエミール・ガレやルネ・ラリックのガラス工芸、アレキサンドル・シャルパンティエの家具装飾、チェコより上京していたアルフォンス・ミュシャのポスター・デザインなどがこの様式の代表例として挙げられる。ドイツやオーストリアではユーゲントシュティールとも呼ばれ、ウィーン分離派、チャールズ・レニー・マッキントッシュ、アントニ・ガウディら、類似した特徴を持つ同時代の他国のデザインもこの動向に含めて考えられることが多い。
キュビスム
Cubism
『ピカソ キュビスム 1907‐1917』ジョゼップ・パラウ・イ・ファブレ 著
神吉敬三他 訳
(平凡社)
20世紀初頭に起こった近代絵画の動向。多視点による立体的な画面構成によって、一点消去遠近法に基づく構図や明暗法など、ルネサンス以来の伝統的な写実主義の形態を根底から覆す強いインパクトを持っていた。動向としてのキュビスムを創始したのはパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックのふたりであり、その背景には、いままでのキャリアに加え、アフリカの黒人彫刻や「自然を円筒と球と三角錐(すい)によって扱う」というセザンヌの言葉からの決定的な影響もあった。ふたりによるキュビスムの探求は1907年~1914年の約7年間に及ぶが、当初はまだ残存していた具象性が徐々に失われ、画面はより抽象的な多視点の構図へと移行していく。1910年前後に画面の構成の仕方に変化が認められることから、前期を分析的キュビスム、後期を総合的キュビスムと区分して考えるのが一般的で、後期にはロベール・ドローネーやフェルナン・レジェ、ファン・グリスらの追従者も現れるようになった。もともとはアンリ・マティスがブラックの絵画を皮肉った蔑称に由来しているが、いまや20世紀美術の最も革新的な動向・手法のひとつに数えられている。
シベリア鉄道
Транссибирская магистраль

ロシアのシベリア南部を東西方向に横断し、ロシア西部と極東地方を結ぶユーラシア大陸横断鉄道。当初開通したのはウラル山脈東麓のチェリャビンスクから日本海に臨むウラジオストクに至る7416キロメートルの区間だったが、現在ではモスクワとウラジオストク間の約9300キロメートルの区間が開通している。1891年に帝政ロシア政府はシベリア地方の開発と軍事力の強化を目的として大陸横断鉄道の建設を決定し、多くの囚人を動員した過酷な建設工事の結果、1895年より各区間が断続的に開通し、日露戦争の最中の1904年9月に全線が開通、極東の戦場に数十万の将兵と大量の武器弾薬を送り届ける役割を果たした。ロシア革命後も、シベリア開発のために不可欠なインフラであることにかわりはなく、またシベリア鉄道をモデルとしたポスターなども多数制作された。21世紀の現在、シベリア鉄道は全線電化されており、中国や北朝鮮に延びる支線も開通している。モスクワ-ウラジオストク間は、ハバロフスク、イルクーツク、ノボシビルクスなどを経由する路線によって、6泊7日で結ばれている。
ジャン・ウジェーヌ・アジェ
Jean-Eugène Atget (1857-1927)

『ウジェーヌ・アジェ写真集』
ウジェーヌ・アジェ(写真)
原信田 実(翻訳)岩波書店
フランスの写真家。ボルドー近くの町リブルヌで、馬車の修理工の家に生まれる。幼くして親と死別し、祖父母に育てられる。水夫、画家、旅回りの役者など複数の職業を転々とした後、30歳を過ぎた頃より写真家としてのキャリアを開始する。当初は絵画のモチーフとなる街頭風景を撮影して画家に販売する仕事をしていたが、1898年にパリ市歴史図書館と写真の売買契約を結び、その後約30年を通じて8,000枚以上の写真を残した。パリの街並みや郊外、地方などを舞台としたその写真は、特に目新しい技法は用いられていないが、庶民の視線で当時の人々の生活を生き生きと伝える一方、時代とともに移り変わる景観を正確に記録しており、その傑出したドキュメント性によって近代写真の先駆に数えられる。商業写真家に徹し、弟子も助手もおらず、サロンでの作品発表を行わなかったため、生前はほとんど無名だったが、晩年になってマン・レイに見出され、彼の弟子にあたる女性写真家ベレニス・アボットの手を通じてその作品が徐々に知られるようになる。初の写真集『アジェ、パリの写真家』が刊行されたのは死後の1930年、ニューヨーク近代美術館がそのコレクションを購入したのは1968年のことであった。
ドイツ工作連盟
Deutscher Werkbund
1907年、ミュンヘンで結成された職能団体で略称はDWB。前年にドレスデンで開催された第3回ドイツ工芸展をきっかけに、「芸術と産業と職人技術の協力」を通じて工芸の「品位を高める」ことを目的に結成された。参加者の顔ぶれはペーター・ベーレンス、リヒャルト・リーマーシュミット、ペーター・ブルックマン、フリードリヒ・ナウマン、さらに若き日のヴァルター・グロピウス、タウト兄弟らと多彩で、なかでもプロイセンの貿易省美術工芸部主任であったヘルマン・ムテジウスは、建築家として多くの住宅建築を設計する一方、アーツ・アンド・クラフツ運動からの影響や日本滞在の経験を踏まえて芸術と産業化の近代化を提唱するなど、連盟の中心的イデオローグとして活躍した。その活動の成果はケルン(1914)やシュツットガルト(1927)で開催された博覧会で広く紹介されたが、前者においては、規格化を推し進めるムテジウスと芸術性を主張するヴァン・デ・ヴェルデの意見が対立し規格化論争が勃発、後者が連盟を去る出来事も起こっている。機械化と芸術性の両立を目指したその精神はバウハウス(1919年開校)にも継承されるが、1933年にはナチスの迫害によって解散を余儀なくされた。戦後の1950年に再興された。
フォト・セセッション
Photo-Secession
1902年、アルフレッド・スティーグリッツとエドワード・スタイケンが中心になって結成された写真家グループ。ほかにはアルヴィン・ラングダン・コバーン、フランク・ユージン、クラレンス・ホワイト、ガートルード・ケーゼビアらが参加した。機関誌『カメラワーク』を通巻50号に渡って刊行し、また1910年にはニューヨーク州バッファローのオルブライト・アート・ギャラリーで「絵画主義写真国際展」を開催するなど、写真による絵画的表現を目指したピクトリアリズムを牽引した。その一方で1905年には、ニューヨーク5番街291番地に小ギャラリーを開設(1908年に「291」と改称)、ここを拠点にロダン、マティス、ピカビア、ブランクーシらの作品を初めてアメリカに紹介する一方、マースデン・ハートリーやジョージア・オキーフ、ジョン・マリンなどの若いアメリカ人画家にも発表の場を提供するなど、今世紀初頭のアメリカのモダニズム芸術運動の展開に当たって大きな役割を果たした。その活動は、実質的には1910年代前半に、名目的にも機関誌が終刊し、ギャラリーが閉廊した1917年には終焉するが、中心人物であったスティーグリッツはその後もアン・アメリカン・ブレイズなどの画廊で、新しい芸術動向の紹介を積極的に続けた。
ポール・ポワレ
Paul Poiret(1880‐1944)
ポール・ポワレ イブニング・ドレス(1933~35年頃)神戸ファッション美術館蔵
フランスの服飾デザイナー。生地商の息子としてパリに生まれる。幼少から演劇、絵画、服飾に興味を持ち、1903年、オペラ座周辺に婦人服店を開く。1906年、ドレス「ローラ・モンテス」を発表、当時の主流だったアール・ヌーヴォーの優美な曲線とは正反対の発想に基づく直線型のシンプルなシルエットに加え、コルセットでウェストを締めつけるそれまでの婦人服の常識を覆したデザインで大きな反響を呼んだ。その後もバレエ・リュスや、日本や中国の要素を取り入れた衣装を次々と考案したほか、高級衣装組合を結成したり、香水を発売したりと、ベル・エポックのファッション王という異名にふさわしい多くの話題を振りまいた。有名な顧客としては、女優サラ・ベルナールや画家ラウル・デュフィらが挙げられる。しかし、ココ・シャネルが台頭した第一次世界大戦後の社会変化に対応できず、1925年の「アール・デコ展」でスポットライトを浴びたのを最後に、しだいにファッション界から忘れられ、晩年は孤独のうちにパリで病死した。現在では、20世紀初頭の服飾革命をリードしたデザイナーとして再評価が進んでいる。
月世界旅行
Le Voyage dans la Lune

フランスのジョルジュ・メリエスが監督・脚本を担当した映画。1902年製作。1秒につき16フレームのコマが上映されるモノクロ・サイレント仕様で、上映時間は16分。大砲の弾丸に乗って月に行った人間が月世界の人間と出会う物語で、ジュール・ヴェルヌの同名の長編小説(原題:De la Terre à la Lune)及びH.G.ウェルズの長編小説『月世界最初の人間(The First Men in the Moon)』を原作として大幅な翻案を加えている。1895年にリュミエール兄弟によって発明された映画は、最初期にはありのままの光景をそのまま映すだけのメディアだった。メリエスも当初はそうした映画を製作していたが、この作品の製作に際しては、機械の故障から偶然に思いついたトリック撮影を導入して弾丸の着弾などを効果的に演出し、多くの観客の圧倒的な支持を得た。そのほかにも、世界初のSF映画(当時は「魔法映画」と呼ばれていた)とされるこの作品は、原作を基にした脚本によるストーリー展開や複数のシーンの存在、固定カメラによる演劇的な演出など、ほかにも複数の画期的な性格を持っていた。メリエスは世界初の職業映画監督としてその後しばらくの間映画界をリードしていく。
有人飛行機
Airplane

胴体に取りつけた翼によって揚力を、エンジンによって推進力を得る有人の飛行物体の総称。以前から多くの飛行実験が試みられ、芸術作品のモデルともなってきたが、現在ではウィルバーとオービルのライト兄弟が1903年12月17日にアメリカ・ノースカロライナ州キティホークで行なった実験が、人類史上最初の有人飛行の成功例と目されている。このときに用いられた実験機ライトフライヤー3号は最高時速48キロメートルを記録したほか、(1)右と左の主翼を逆方向にねじることにより左右の揚力バランスを変え機体を傾ける機構、(2)対重量比で多くの動力を生みだすガソリンエンジンを搭載、(3)木製の骨組みに布を張ることによって軽量化された機体、(4)腹ばいで機体にまたがり、左右の操縦桿で機体を操作する操縦法、などの優れた特徴を備えていた。これらの特徴は、いずれもグライダーによる多くの飛行実験によって得られたデータに基づき考案されたものである。その後有人飛行機は、第一次世界大戦で本格的に軍用化されるなど、わずか10数年のうちに飛躍的な進歩を遂げるが、ライト兄弟の偉業は、周囲の嫉妬や無理解、あるいは特許権等の複雑な要因もあって、彼らの生前には必ずしも正当には評価されなかった。
未来派
Futurismo
今世紀初頭のイタリア・ミラノで提唱された芸術運動。1909年、詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティがフランスの「フィガロ」紙上にて発表した「未来派宣言」を契機とする。同宣言のなかでマリネッティは、伝統的な芸術観念との訣別を表明すると同時に、20世紀の文明社会に対応した芸術観を賞賛し、それに対応する形で、1910年代のイタリアには同時性、機械美、速度などを強調した多くの特徴的な芸術表現が登場した。その対象は美術、建築、音楽などの各領域に及び、ジャコモ・バッラの抽象絵画、ウンベルト・ボッチョーニの抽象彫刻、アントニオ・サンテリアの建築デザイン、ルイジ・ルッソロの騒音音楽などをその代表例として挙げることができる。未来派の理念は封建主義から資本主義への急速な価値転換を背景に出現したものであり、そこには急速な機械化や表現主義の強い影響が窺える半面、ロシア構成主義やダダイズム、シュルレアリスムの先駆的な側面も潜んでおり、特に提唱者であるマリネッティの主張には後のファシズムとの親近性が露である。なおマリネッティの宣言文は同年中に森鴎外によって翻訳され、また1920年には普門暁が未来派美術協会を設立するなど、その影響は遠く離れた日本にも及んだ。



