1910年代

アーモリー・ショー

[ 1910年代, ]

1913年2月17日~3月15日、アメリカ画家・彫刻家協会の主催によって開催され、ニューヨーク、ボストン、シカゴを巡回した美術展。正式名称は「国際現代美術展」だが、ニューヨークでの会場がレキシントン街25番地にあった第69連隊の武器庫であったことから、現在では「アーモリー・ショー」の名が定着している。同展は、アメリカ美術をさらに発展させるためには同時代のヨーロッパ美術と徹底的に比較検討すべきとの立場から企画されたもので、開催前年には徹底した現地調査が実施された。約1600点の出品作品のうち、ヨーロッパ美術の比率は約3分の1であったが、その大半は印象派、後期印象派、フォーヴィズム、キュビスムなどのフランス美術によって占められており、アメリカにおけるモダンアート受容の方向性を大きく決定づけた。なかでも、マルセル・デュシャンの実質的な最後の絵画であった『階段を降りる裸体』(NO.2)の出品は、後のデュシャン本人がニューヨークに拠点を移してニューヨーク・ダダのムーブメントが始動するきっかけとなるなど、歴史的にも大きな意義を有していた。それまで「291」などのごく限られた場所でしか見ることのできなかったアメリカ現代美術は、大きな賛否両論を呼んだこの展覧会を機に隆盛を迎えるといっても過言ではない。なお現在「アーモリー・ショー」の名は、まったく同じ場所で開催されている大規模なアートフェアへと継承されている。

ジャズ

[ 1910年代, ]

ジャズ 『ジャズの歴史-絵本で読む音楽の歴史』
ジュゼッペ・ヴィーニャ 著
(ヤマハミュージックメディア)

19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ南部で発達した音楽の1ジャンル。使用する楽器や基本的な演奏法は西洋のクラシック音楽に準拠しているが、そのリズム感覚にはアフリカの民俗音楽の影響が多大であり、4分の4拍子の第2拍と第4拍にアクセントを置くオフ・ビートのリズム、ブルーノートの音階、インプロビゼーション、演奏者の個性に大きく左右されるサウンドとフレージングなどに強い独自性が認められる。ニューオリンズの黒人ブラスバンドに由来し、下品な隠語を意味するjassが語源ともいわれるが、詳細は不明。1917年、ニューオリンズ出身のオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが初めて2枚の商業用レコードを発売したのを機に急速に広まり、第一次世界大戦の終戦から世界恐慌が始まるまでの約10年間は「ジャズ・エイジ」とも呼ばれる人気を博した。その後もブルースやラグタイムなどの要素を取り込んださまざまなバリエーションが開発され、黒人文化やクレオール文化に由来するポピュラー音楽として、世界各地で親しまれている。

タイタニック号

[ 1910年代, ]

タイタニック号 提供先:KUDOS MARINE

イギリス・ホワイトスターライン社が建造した客船。正式名称はR.M.S. Titanic。重量は4万6329トン、全長269.1メートル、幅28.2メートルに達し、進水時世界最大規模の大型船だった。ただし船速は22ノットで、シャンデリアや飾り窓を多用した豪華な内装やプロムナード・デッキのついたスイートルームが設けられるなど、速度よりは快適さを重視したつくりとなっていた。大西洋航路に就航し、1912年4月10日、サザンプトンからニューヨークに向けて処女航海に出航するが、5日後の夜にニューファンドランド沖で氷山に激突して浸水し、約3時間後には沈没した。そのときの乗員・乗客は計2224人であったが、救命艇の収容人員は最大でも1178人分しかなく、乗りそこねた1513人が死亡する史上最大の海難事故へと発展した。二重底と防水区画を採用していたタイタニック号は「不沈船」ともうたわれる堅牢な船体を誇ったが、出発時の手違いで双眼鏡を使えなかったことと、激突時に大きな亀裂が生じたのが致命傷となった。なおこの海難事件は、史上初めて「SOS」の国際救援信号が発信されたことでも知られており、小説や映画など多くの物語の題材ともなっている。

ダダ

[ 1910年代, ]

ダダ 『ダダ・シュルレアリスムの時代』
塚原 史 著
(ちくま学芸文庫)

1910年代半ばから1920年代前半にかけて、欧米の複数の地域で展開された芸術運動。ダダイズムとも呼ばれる。美術、写真、演劇、文学などの各分野に及び、反美学的、反道徳的な衝動を最大の特徴とする。1916年、スイス・チューリヒの「キャバレー・ヴォルテール」で、ルーマニア移民の詩人トリスタン・ツァラらが過激なパフォーマンスを行なったのが起源とされるが、フランス語で木馬を、スラブ系言語で相槌を意味する「ダダ」という言葉がこの運動に当てられた必然性は特にない。また、それからわずかに遅れて、パリ、ケルン、ベルリン、ハノーバーなどでも独自の過激な活動が展開されたが、背景でもあった第一次世界大戦の終焉に伴い、それらの運動は徐々に先鋭性を失い、シュルレアリスムへと回収されていった。いっぽうアメリカでも、ヨーロッパとほぼ同時期にマルセル・デュシャン、フランシス・ピカビア、マン・レイらが既成の美術や価値観に重大な疑問を提起する制作活動を展開したが、1913年のアーモリー・ショーを起源とする彼らの活動はヨーロッパのダダと直接の影響関係にはなく、またシュルレアリスムにも向かわなかった点で大きく異なっていた。

デ・ステイル

[ 1910年代, ]

第1次世界大戦後のオランダで興隆した芸術運動。デ・ステイルはオランダ語で「様式」を意味する。中心を担ったテオ・ファン・ドゥースブルフは大戦前から活躍していた気鋭の画家・評論家で、復員した1917年に同名の機関誌を創刊、絵画、建築、デザインなどの諸領域を通じて、赤・青・黄の基本三原色と単純な構成を重視した抽象度の高い造形理念を浸透させていくことを訴えた。ピューリタニズムを髣髴とさせる禁欲的な理念は同時代の多くのオランダ人の共感を呼び、なかでも抽象画家ピート・モンドリアンや「シュローダー邸」で知られる建築デザイナー、ヘリット・トーマス・リートフェルトらの参加を得たことによって、運動は大きな潮流を形成する。しかし、新造形主義を標榜し、垂直線と水平線のみの構成にこだわったモンドリアンと、エレメンタリズムに基づく対角線の導入を訴えたドゥースブルフの意見がぶつかり、結局1925年にはモンドリアンが離脱したのをはじめ、ドゥースブルフと意見の対立したメンバーの離反が絶えず、ドゥースブルフが亡くなった翌年(1932年)、未亡人が夫の遺稿を編んだ機関誌最終号の発刊をもって運動も終焉する。運動の展開がほぼオランダ国内のみに限られ、また理念を実践する学校や工房をもたなかったため知名度は低いが、今世紀初頭を代表するモダニズム芸術運動の1つであることに変わりはない。

ハリウッド

[ 1910年代, ]

カリフォルニア州ロサンゼルス市のダウンタウンから北西約10キロに位置している地区。ハリウッドという地名は、この地区にセイヨウヒイラギ(holly)が多数自生していることに由来する。もともとは農村地区であったが、1880年代より宅地開発が始まり、1903年に市制施行、1910年にロサンゼルス市に合併された。1年の大半が好天に恵まれ、またメキシコ国境に近く安価な労働力の調達が容易であったため、1911年にネストール社が初めて映画スタジオを建設したのを皮切りに、一部の大手業者の寡占に反発した多くの中小映画会社が続々とこの地区へと拠点を移した。ハリウッドランド社によって山の中腹に「HOLLYWOODLAND」のサインが設置された1923年前後には、それまでの東海岸に代わってアメリカの映画産業の一大中心地となっていた(のちに「LAND」の部分を削除)。映画産業が斜陽化したために全盛期の華やかさは失われたが、現在でも毎年多くの映画が製作されており、映画スターのサインや手形を集めた蝋人形博物館やチャイニーズ劇場、公開製作を行なうスタジオなどは人気スポットとして内外から多くの観光客を集めている。

バウハウス

[ 1910年代, ]

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『バウハウス』
マグダレーナ・ドロステ 著
(タッシェンジャパン)

第1次世界大戦後のドイツ・ワイマール共和国に営まれた芸術学校。同校を拠点として展開されたモダニズム芸術運動を総称する場合もある。1919年にワイマールにて開校し、初代校長のワルター・グロピウスを中心に、ラズロ・モホリ=ナジ、ヨハネス・イッテン、パウル・クレーらの教授陣が家具、舞台装置、ファッション、絵画、写真、映画、テキスタイル、グラフィック等の各ジャンルにまたがる多彩な教育を行ない、多くの成果を生み出した。抽象志向、幾何学的形態、機械芸術、応用芸術などを重視した独自の造形教育理念には、アート・アンド・クラフト運動やドイツ工作連盟からの強い影響がみられ、またドイツ語で「建築の家」を意味する校名にならって、それらの理念はすべてを器としての建築へとまとめあげていく方向性をもっていた。その影響は遠く日本にまで及んでいる。なお同校は、1928年にはハンネス・マイヤーが第2代の、1930年にはミース・ファン・デル・ローエが第3代の校長に着任するが、1925年にはデッサウに、1932年にはベルリンに移転するなど、財源不足とナチスの弾圧によって不安定な運営を余儀なくされ、1933年に閉校となる。なお東西ドイツ統一後の1996年に、ワイマールの旧校舎を拠点としてバウハウス大学が設立され、かつてのバウハウスの流れを汲む実験的な芸術教育が行なわれている。

マルセル・デュシャン

[ 1910年代, ]

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『マルセル・デュシャン』
ジャニス・ミンク 著
(タッシェンジャパン)

フランスの美術家。ノルマンディー地方ブランヴィルの裕福な家庭に、7人兄弟の三男として生まれる。それぞれ画家、彫刻家となった2人の兄の影響で幼い頃より美術に強い関心を示し、パリのアカデミー・ジュリアンで美術を学び、印象派やフォーヴィズムの影響を受けた絵画を制作するが、徐々に絵画制作への意欲を失い、1913年にアーモリー・ショーで大きな反響を呼んだ『階段を降りる裸体』(No.2)が実質的に最後の絵画作品となる。第1次世界大戦を機にアメリカに拠点を移して以後は、フランシス・ピカビアやマン・レイと並んでニューヨーク・ダダの中心人物として活躍、署名しただけの既成の便器をそのまま美術展へと出品した『泉』(1917)、未完のまま放置された『大ガラス』(1923)、視覚をかく乱する効果をもつ『ロトレリーフ』(1935)などの問題作で物議を醸した。既製品に手を加えてまったく新たな意味や文脈を創出する「レディメイド」という手法を多用するなど、その制作姿勢には芸術への根本的な懐疑が滲んでおり、戦後世界では「現代美術の父」として絶大な影響力をもつにいたった。自作をめぐる膨大なメモを書き残し、女装してローズ・セラヴィを自称するなど、その特異な思考は平素の言動にまで及んだが、後半生はチェスに熱中し、ほとんど作品制作を行なわなかった。

ワシリー・カンディンスキー

[ 1910年代, ]

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『カンディンスキー (美の20世紀 7)』
ミハイル・ゲールマン 著
籾山 昌夫 翻訳
(二玄社 )

ロシア・ソ連の抽象画家。モスクワに生まれオデッサで過ごす。モスクワ大学で法学と経済学を学んだ後に渡独し、ミュンヘンにて美術の勉強を始める。分離派展やサロン・ドートンヌなどへの出品を経て、新ミュンヘン美術家協会の会長に着任するなど頭角を現し、1911年には「青騎士」を結成する。1918年、革命直後のロシアに帰国し前衛芸術の指導にあたるがスターリンの台頭のためドイツに戻ることを決意、1922年にバウハウスの教授に着任、同校が閉鎖されるまで指導にあたる。ナチスが政権についた後は迫害を受け、フランスに拠点を移すが、多くの同僚がアメリカに渡るなか、断固として移住を拒否してそのまま没する。1910年前後に具象絵画を放棄してからは、フォーヴィズムや表現主義を経由した後に、淡い色彩で幾何学的に描かれた画面によって浮遊感を演出する、独自の抽象絵画を確立した。『芸術における精神的なもの』を著すなど理論家としても優れ、自らの美学的な原理を音楽との関連によって説明し、その連想から多くの自作を「コンポジション」と命名した。精神の自律性を志向したその抽象絵画は20世紀美術のひとつの極点を指し示している。

相対性理論

[ 1910年代, , ]

相対性理論 『相対性理論』
アルバート・アインシュタイン 著
(岩波文庫)

物理学者アルバート・アインシュタインが1905年に発見した特殊相対性理論と1916年に発見した一般相対性理論の総称。単に相対論(relativism)と呼ばれることもある。前者は光の速度が座標系の速度とは無関係に常に一定値に収まる事実に基づいて、等速で直線運動をしている複数の観測者に対してすべての物理法則が同じ形で成立するよう定式化したもので、ニュートン力学とマクスウェル電磁気理論の間の矛盾を解消し、原子核や素粒子研究の発達に大きく寄与した。いっぽう後者は、加速している観測者同士にも相対性の原理が成立することを仮定したもので、重力の場を含むあらゆる座標系に対して成り立つことから「一般」と命名された。この理論は万有引力の説明のために導入されたものだが、運動の絶対の基準であった時間・空間が、観測者に対してだけ意味をもつ相対的なものであることを明らかにしたことから、四次元という新しい時間・空間の概念の発見をもたらし、ブラックホールなどの研究にも貢献することになった。1922年にアインシュタインはノーベル物理学賞を受賞するが、相対性理論に対しては賛否両論喧しかったためか、表向きの受賞理由は「光電効果の発見」とされている。

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