アール・デコ
Art Déco

提供:東京都庭園美術館
1925年にパリで開催された「現代装飾美術・工芸美術国際博覧会」の略称に由来する新しいデザインの様式。同博覧会で好評を博して後、国際的に広まっていったことから「1925年様式」とも呼ぶ。様式史上の系統では前世紀末のアール・ヌーヴォーの後継に位置づけられるが、そこにはもはや優美な曲線美は認められず、その代わりにスピード感溢れる流線形や電波を擬態したジグザグ模様、太陽光を髣髴とさせる放射線などの直線的、幾何学的な図柄が多用されている。これは、合成樹脂、鉄筋コンクリート、強化ガラスといった新しい素材が生みだされ、また飛行機や自動車が世界を走りまわり、多くの工業製品が量産されるようになった1920年代の時代性や都市型消費社会の欲望を体現したものと考えられる。独特の様式は各分野に波及し、建築ではクライスラー・ビル、絵画ではアドルフ・カッサンドル、インダストリアル・デザインではレイモンド・ローウィ、宝飾品ではティファニー、ファッションではココ・シャネルらが代表例として挙げられる。日本でも杉浦非水のポスターデザインや旧朝香宮邸(現東京都庭園美術館)などにその影響が指摘される。一時期は低い評価に甘んじていたが、その機能美と装飾性が融合したデザインがまた再評価されつつある。
東京都庭園美術館
http://www.teien-art-museum.ne.jp
エスプリ・ヌーヴォー
esprit nouveau
提供:大成建設株式会社建築家ル・コルビュジエと画家アメデ・オザンファンが共同で刊行していた雑誌。1920年の創刊から1925年の終刊まで、通巻28号を刊行する。画家でもあったル・コルビュジエは、スイスからパリに上京して間もない1918年にオザンファンと知りあい、当時盛期を迎えていたキュビスムへの批判的見解で意気投合、共著の出版やふたり展の開催を経てピュリスムという絵画運動を創始し、その拠点として新雑誌を創刊した。『新しい精神』という意味のタイトルにふさわしく、この新雑誌には多くの詩人、画家、建築家らが寄稿し、また彫刻、文学、音楽、演劇、映画、サーカス、スポーツ、ファッションなどのさまざまな話題が取りあげられ、ときに論争が繰り広げられた。この誌面の活気は、社交家であったオザンファンの手腕によってもたらされた部分が大きい。またこの雑誌は、それまで本名のシャルル・エドエワール・ジャンヌレで活動していたル・コルビュジエが風変わりなペンネームを名乗りはじめたきっかけともなり、その後著書にまとめられる多くの原稿が発表されたが、建築家としての名声の高まりにつれてオザンファンとの関係が悪化し、雑誌も終刊を余儀なくされた。
シュルレアリスム
Surréalism
『シュルレアリスムとは何か』巌谷 国士 著
(ちくま学芸文庫)
超現実主義。両大戦間のヨーロッパで広く展開された総合芸術運動。この語の命名者はギヨーム・アポリネールだが、運動としてのシュルレアリスムは1924年、医師にして詩人であったアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム第一宣言』を発刊したことによって始まる。同書において、ブルトンはシュルレアリスムを「理性によるいっさいの制約、美学上、道徳上のいっさいの先入見を離れた、思考の書き取り」、また「これまで閑却されてきたある種の連想方式の優れた現実性への信頼、および思考の非打算的活動への信頼に根拠を置く」と定義、当初はおもに文学の領域で展開されたが、やがて美術の分野でも自動記述やコラージュ、デペイズマンなどの技法を駆使した作品が制作されるようになった。その傾向は、ジョアン・ミロやマックス・エルンストのように記号的なイメージを多用したものと、サルヴァドール・ダリやルネ・マグリットのように夢の中の風景を具象的に描いたものとに大別される。理論的には精神分析の強い影響下にあり、また多くの作家はダダの流れを汲んでいた。ナチスによる弾圧も受けたが、第二次世界大戦後も継続されるなど寿命は比較的長かった。
セルゲイ・エイゼンシュテイン
Сергей Михайлович Эйзенштейн, Sergei Mikhailovich Eisenstein (1898-1948)
『戦艦ポチョムキン』セルゲイ・エイゼンシュテイン 監督
(発売:アイ・ヴィー・シー)
旧ソ連の映画監督。ラトビアのリガでユダヤ系の家庭に生まれる。ロシア革命に赤軍として参加、復員したのちに国立高等演劇工房に学び、多くの作品の演出や舞台美術を手がける。1924年より映画に転向し、同年に処女作『ストライキ』を監督。翌1925年に監督した『戦艦ポチョムキン』は、軍隊がデモ行進を行なっていた民衆を虐殺する『オデッサの階段』の秀逸な描写によって、サイレント映画屈指の傑作として知られるようになる。この場面の撮影に駆使されたモンタージュ撮影は、一時期日本語を学んでいたエイゼンシュタインが、異なる文字の組み合わせによってまったく違った意味をつくりだすことのできる漢字の特性から思いついた可能性が指摘されている。その後も『十月』『全線』『アレクサンドル・ネフスキー』などの作品を精力的に監督、国際的な名声を博し、ハリウッドからも招かれた。初期の革命精神に忠実であったエイゼンシュテインはレーニンからは寵愛されたが、後釜に座ったスターリンとは意見が合わず冷遇された。パート・カラーの映像表現を試みたトーキー映画の大作『イワン雷帝』修正を指示されるもこれを拒否し、それ以降監督は行なわず後進の指導に専念した。
ナウム・ガボ
Naum Gabo, Наум Габо (1890-1977)
ロシア・ソ連の彫刻家。本名ナウム・ネーミヤ・ペブスナー。兄アントワーヌは画家。ブリャンスク生まれ。1910年、ミュンヘンへと上京し当初は薬学を学ぶが数学と工学に転じ、さらに「ブラウエ・ライター」の展覧会と評論家ハインリッヒ・ヴェルフリンの講演会に接したことがきっかけで美術に強い関心を抱き、厚紙や金属板を用いた立体造形物を制作しはじめる。1917年、革命の勃発したロシアに帰国し、タトリンの知遇を得る。兄との連名で『リアリズム宣言』を出版するなど、当時最盛期だったロシア構成主義のムーブメントのなかで精力的に活動するが、1922年にはスターリン政権下のロシアを去り、ドイツで構成主義の彫刻制作に取りくむ。その後もフランス、イギリス、アメリカと渡り歩き、後年はアメリカに帰化した。ロシア構成主義の命名者であり、またいち早くキネティック・アートを試みるなど、デュシャンにも並ぶ先駆的な視野の持ち主で、またその一方ではインターナショナル・スタイルに代表される機能主義建築と解放的な抽象彫刻の統合にも多大な関心を寄せていた。
ニューヨーク近代美術館(MoMA)
Museum of Modern Art
1929年、ロックフェラー夫人ら3人の女性の個人コレクションを基盤として大恐慌のさなかのニューヨークのマンハッタン西53丁目に開館した美術館。「セザンヌ、ゴーギャン、スーラ、ゴッホ」展で杮落としを飾るなど、ヨーロッパの古典重視の方針を採用していたメトロポリタン美術館とは対照的に、開館当初より近現代美術を専門とする方針を打ち出した。初代館長であるアルフレッド・バー・Jrが作成した美術史チャートは、従来のヨーロッパ中心史観に甘んじることなく、同館がアメリカ独自のモダン・アートを発信せんとする気概を示したものとして知られている。所蔵品では、ピカソの「アヴィニョンの娘たち」などが著名。また写真、映像、建築、デザインなど、従来は美術館の守備範囲とみなされていなかった分野に対しても開館以来積極的に取りくんでおり、「インターナショナル・スタイル」や「オーガニック・デザイン」などの斬新なコンセプトに基づく展覧会を企画・開催した。1932年に現在の53番街に移転して以来、幾度か大規模な拡張工事を体験しており、2004年末には日本の谷口吉生が拡張プログラムを担当した新館が竣工した。モダン・アートの殿堂として、その動静は世界の美術関係者から常に熱い注目を集めている。
ライカ
Leica

ドイツのカメラ・ブランド。1849年にウェッツラーで創業された老舗メーカー、エルンスト・ライツ社のカメラを「LEItz CAmera」と略称したことに由来する。1916年、ライツ社に勤めていた技術者オスカー・パルナックは、当時の標準機だった重い乾板を利用した大型カメラとは異なる、小さいネガを採用した小型カメラ「ウル・ライカ」を独自に考案したが、その高性能ぶりに眼を見張った2代目社長エルンスト・ライツ2世は1925年、レンズに改良を施した同機の市販タイプを開発、「ライカA型」の名で世に送りだした。初年度の生産台数は約1,000台に過ぎなかったが、ライカはそのコンパクトなサイズと解像力の高さにおいて並ぶものがなく、1934年にはライカタイプと呼ばれる量産型カメラの製造を開始し、そのブランド名は世界のカメラ市場に広く浸透した。当時はシュルレアリスト、ダダイスト、あるいはロシア構成主義やバウハウスなどによって新しい写真表現の可能性が開拓され、またアメリカでは新しい写真雑誌「ライフ」が創刊されるなど、本格的なフォト・ジャーナリズムの時代を迎えつつあったが、高性能で気軽に持ち運ぶことのできるライカはその趨勢のなかにあって大いに重宝され、世界中のジャーナリストやアーティストの注目の的となったのである。
ライカカメラジャパン
http://www.leica-camera.co.jp
ロシア構成主義
Constructivism、Конструктивизм
1910年代のロシア・ソ連に起こった構成主義の芸術運動。ラリオーノフのロシア未来派やマレヴィッチのシュプレマティスムといった国内の動向はもとより、未来派やキュビスムなどからも強い影響を受け、抽象性や幾何学的造形を重んじた絵画や建築、舞台美術などが試みられ、ロシア・アヴァンギャルドのなかでも一大潮流を形成した。当時の社会主義運動とも深く連動して展開された点にも特徴があり、両者の蜜月は1917年のロシア革命において頂点に達した。代表的な作家としては、構成主義をロシア国内に紹介し、「第3インターナショナルのためのモニュメント」を建造したウラジミール・タトリン、ポスターデザインで著名なアレクサンダー・ロトチェンコ、フォトモンタージュの研究を推し進めたエル・リシツキーらが挙げられる。彼らはいずれも工業デザインに深く関与し、ブルジョワ文化の象徴である従来の絵画を否定して、その代わりに実用性や幾何学的表現を重視して、ロシア革命の理念を体現しようとした。ヴフテマス(国立高等美術工芸工房)などでの教育活動も熱心に行われたが、社会主義リアリズムが重視されたスターリン政権下では冷遇され、一部の作家は西側へと移住した。
十二音音楽
Dodekaphonie, Zwölftonmusik, dodecaphony, twelvetone music
平均律音階中の十二音を同等に扱う音楽の総称。調性音楽では当然の主音を中心とするヒエラルキーを崩壊させたことから、ドデカフォニーとも呼ばれる。この音楽はアントン・ウェーベルンの『チェロとピアノのための3つの小品』やヨゼフ・マティアス・ハウアーの『トローペ』などを原型とするが、一般にはアーノルト・シェーンベルクが1921年に確立したものとされる。シェーンベルクは、まず12の半音が一度ずつ現れるひとつの音列の原形をつくり、ついでそれを基にして原形を後ろから辿った逆行形、音程の上芸を反対にした反行形、反行形と逆行形を組み合わせた反行逆行形の4つの形、さらにそれを十二音に配置した総計48の音列をつくり出した。そのうちいくつかの音列を用いて音楽を構成する対位法的な十二音技法を考案し、『5つのピアノ曲』(1923年)『セレナード』(1923年)『ピアノ組曲』(1924年)などを作曲した。シェーンベルクの弟子にあたるウェーベルンは十二音理論をさらに発展させてミュージック・セリエルの基礎をつくり、また戦後にはストラヴィンスキーもこの理論に基づいて作曲を行なった。現代音楽の作曲で用いられることはあまりない技法だが、理論的な影響力はきわめて大きい。
周期表
Periodic table
元素を原子番号に従って配列した表。配列の規則のことを周期律ということからこう呼ばれる。周期律という考え方は古くから知られていたが、今日用いられている周期表は、1869年にロシアの物理学者ドミトリ・メンデレーエフによってその基礎がつくられたものである。周期表の作成にあたって、メンデレーエフは天然の諸元素を原子量の順に配列することによって、さまざまな関係や科学的挙動が現れることを発見した。今世紀になって、この周期表の研究をさらに推し進めたのが、デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアである。量子力学の研究でアインシュタインと並び称されるボーアは、1913年には電子が原子核の周りを回っているボーア・モデルと呼ばれる原始モデルを考案、1921年にはさらにそれを発展させるかたちで、より厳密な周期律のモデルを発表し、翌1922年にはこの研究を含めた原子物理学への貢献によってノーベル物理学賞を受賞した。なおボーアは1927年には相補性を提唱するなど、その後も画期的な研究によって科学やテクノロジーの発展に大きく寄与したが、その原子理論がアメリカの原爆開発に利用されるなどの一面もあった。



