1930年代

A・M・カッサンドル

[ 1930年代, , ]

フランスのポスター・デザイナー。本名アドルフ・ジャン=マリー・ムーロン。ウクライナのハリコフに生まれ、後にフランスに移住し、アカデミー・ジュリアンで美術を学ぶ。1920年代初頭より、ギリシア神話の預言者カッサンドルにちなんだペンネームを名乗ってポスター・デザインを発表しはじめ、1925年のパリ現代装飾美術・工芸美術国際博覧会(通称アール・デコ博)でポスター大賞を受賞し、一躍最前線に躍り出た。代表作に『北極星号』『北方急行』(1927)、『アトランティック号』(1931)、『デュボ・デュボン・デュボネ』(1932)、『ノルマンディー号』(1935)など。その船や列車のポスターは都会的な雰囲気とテクノロジーやスピードへの強い憧憬を感じさせるアール・デコ色の強いものであり、またキュビスムの影響と思しき幾何学的な造形にも際立った特徴があった。従来は画家の仕事とされていたポスター制作を広告デザインの1ジャンルとして確立し、またフィクス・マソーらの弟子を養成したことから「現代ポスターの父」とも呼ばれており、イヴ・サンローランのロゴデザインを手がけたことでも知られている。第2次大戦後は舞台美術や雑誌のデザインにも手を広げたが、人気が衰えるなど不遇な晩年を過ごし、失意のうちにピストル自殺した。

ディズニー映画

[ 1930年代, ]

1923年に創設されたウォルト・ディズニー・カンパニーは、創業者であるウォルト・ディズニーの陣頭指揮の下次々と新しい作品を世に送りだしてきた。1928年には世界初のトーキー・アニメ作品『蒸気船ウィリー』を制作したディズニーは、1932年には世界初のカラー・アニメ作品『花と木』を、1937年には代表作『白雪姫』を制作し、最初の黄金時代を迎える。アニメーション映画は映画史の最初期より存在したが、その表現は総じて質が低く、大半の作品は実写作品の合間に上映される子供向けの息抜き程度にしかみなされていなかった。そこにディズニーは手間を惜しまない作画、子どもにも親しみやすい名作童話のアレンジ、動物キャラクターの擬人化などの手法を導入し、アニメーションを親子揃って楽しめる良質の娯楽映画へと高めたのである。ミッキーマウスやバンビ、ダンボのようなオリジナルキャラクターは子どもたちの大人気を博し、街では「ハイホー」や「口笛吹いて精出して」などの映画主題歌がひっきりなしに流れるようになった。その後ディズニーは一時期低迷するものの、アニメーター養成学校での後進の育成やディズニーランド開園 などの企業努力が実を結んで影響力を取りもどし、現在に至るまでアメリカ屈指の一大エンターテインメント産業として君臨しつづけている。

バックミンスター・フラー

[ 1930年代, , ]

バックミンスター・フラー 『宇宙船地球号操縦マニュアル』
バックミンスター・フラー 著
(ちくま学芸文庫)

アメリカの発明家、建築家、デザイナー。マサチューセッツ州ミルトン生まれ。ハーバード大学を中退した後、海軍兵学校に学び、第一次世界大戦に従軍、飛行機や自動車の構造や建築デザインに強い興味を持つ。除隊後に本格的な研究と事業を開始し、1930年代には自ら「ダイマクション」(ダイナミックで最大限の能率を有するという意味の造語)と名づけた量産型のメカニカルな構造を考案、この構造を応用した住宅や自動車を続々と発表した。第二次大戦後は合金、合板、プラスチックなどの規格化された三角形の部材でドームを形づくり、その下に可能な限り大きな空間を得る「ジオデシック」という構造を考案し、その実用化を推進、モントリオール万博(1967年)のアメリカ館の成功を通じて彼の名声は世界的なものとなった。そのほかにも、「シナジェティック」「バイオスフィア」「宇宙船地球号」など、今日でいうサステイナビリティの視点に基づく多くの先駆的な研究を発表したが、それらの研究の大半は一部の信奉者の熱狂的な支持こそ得たものの実現されることはなく、また幾度かの事業の失敗や長女の死にも見舞われるなど、波乱の多い生涯を送った。

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」

[ 1930年代, , ]

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『複製技術時代の芸術』
ヴァルター・ベンヤミン 著
(晶文社クラシックス)

ドイツの批評家ヴァルター・ベンヤミンが著した複製芸術論。「芸術作品は、原理的には、常に複製可能であった」との書きだしで始まる同書は、古代ギリシアにおけるブロンズ像、テラコッタ、硬貨に複製芸術の起源を見出し、その後中世期の銅版や腐蝕銅版、19世紀初頭のエッチングへと展開されていく複製芸術の系譜を追っていく。なかでも、19世紀中頃に登場した写真は複製芸術の革命的な転機として位置づけられており、ベンヤミンはその技術的核心を「この技術によって人間の手が形象の複製のプロセスの中でこれまで占めていたいちばん重要な役割から、はじめて解放されることになった」と評した。この指摘は、オリジナルと変わらない質のコピーを大量生産することが可能な写真が、唯一無二の存在であることに由来する芸術の「真正性」を、ひいてはオリジナルの作品のみがもつ「アウラ」を大きく揺り動かし、またそれと同時に美術作品の観賞形態が唯一無二の「アウラ」を珍重する礼拝価値から、多くのモノ自体の価値を等閑視しようとする展示価値へと移行したという画期的な見解へと繋がっていく。 小著だが、1936年の発表時点でいち早く複製芸術の本質に着目していた優れた先見性によって、著者の代表作であるばかりか、20世紀の最も重要な芸術論のひとつに数えられている。

マシーン・エイジ

[ 1930年代, ]

1930_lifefirst.jpg

『LIFE』創刊号(1936年11月23日)
Margaret Bourke-White photo of Ft. Peck Dam.
LIFE Magazine © Time, Inc.

機械がもつダイナミズムとスピード感を新しい時代の象徴として捉える機運が強かった、両大戦間のアメリカの時代精神を指していう言葉。その傾向は美術、写真、建築、デザイン等の各ジャンルで広く認められた。エンパイアステートビルの竣工(1931)に始まるニューヨークの摩天楼群の建設はマシーン・エイジの火蓋を華々しく切り、他にも鉄とガラスとコンクリートによって構成されるインターナショナルスタイルの建築、フォートベックダムのグラビアによって写真誌『LIFE』創刊号の表紙を飾ったマーガレット・バークホワイトの写真、巨大な機械を精密に描いたチャールズ・シーラーの絵画などこの時代ならではのダイナミックな表現が続々と生み出された。とくに、レイモンド・ローウィーやノーマン・ベル・ゲティーズ、ヘンリー・ドレフュスらを代表格とする流線形の造形は、スピードと未来というテーマに基づく大量生産を目指した、マシーン・エイジの理念を体現したデザインであった。この傾向は、20年後のアメリカを見せることを目的とした「フューチャラマ」が上映された1939年のニューヨーク万博でピークに達したが、第2次世界大戦の到来による時局の急激な変化は、マシーン・エイジの理想をも過去へと追いやってしまった。

ラジオ・デイズ

[ 1930年代, ]

ラジオ・デイズ 『ラジオ・デイズ』
ウディ・アレン 監督
(発売:20世紀フォックス ホームエンターテイメント)

1930年代に黄金時代を迎えたアメリカのラジオ文化を称した言葉。アメリカに初めてラジオ局が開局したのは1920年のことだが、それから10年後の1930年に全米のラジオ局は総数600を超えるほどに成長した。各地のラジオ局で流れていたグレン・ミラー、ベニー・グッドマン、トミー・ドーシー、アーティ・ショーらのポピュラー音楽はいずれも大ヒットを記録し、また19世紀末に創刊された音楽雑誌『ビルボード』はその大ヒットを受けて大幅に誌面を刷新、独自の統計に基づいて週単位で楽曲をランキング化する「ヒットチャート」を導入して大成功を収めた。またこの当時のラジオでは、台詞の朗読によるラジオドラマも人気を博しており、『エイモスとアンディ』や『ローンレンジャー』などの人気番組は3000万人以上の聴衆をひきつけたといわれている。第二次大戦後、大衆娯楽の主役は新しいメディアであるテレビへと移行していくが、音楽ショー、ドラマ、バラエティといった番組の形式は、いずれも戦前のラジオに由来している。1987年には、この時代の無邪気な雰囲気を巧みに再現したウディ・アレン監督・脚本の映画『ラジオ・デイズ』が公開された。

ラズロ=モホリ・ナジ

[ 1930年代, , ]

両大戦間に活躍した写真家、美術教育家。本名ヴァイス・ラズロー。モホイ=ナギ、モホリ=ナギなど複数の呼称があり、1つに定着するにいたっていない。ハンガリー生まれ。当初は法律を学ぶが、戦傷の療養中に美術に関心を抱き、亡命先のドイツでリシツキーやグロピウスの知遇を得る。1923-1928年の間、グロピウスの招聘に応じてバウハウスにて教鞭を執る。バウハウス退職後はオランダ、イギリス滞在を経てアメリカに渡り、1937年にはシカゴでニュー・バウハウス(現在のイリノイ工科大学))を設立した。『動く構成組織』(1921)や『光=空間調節器』(1930)などの重要な作品を残し、ドイツ新興写真(ノイエ・フォト)の中心人物としても活躍する一方で、造形教育でも本領を発揮し、バウハウスの芸術概念の工業や建築への応用の可能性を追究したほか、「写真は光の芸術である」との確信のもと写真やタイポグラフィを講じ、フォトグラムやフォトモンタージュの理論と実践を後進に伝えた。その教育理念と数多くの映像実験の成果は、バウハウス叢書の一冊として刊行された『絵画・写真・映画』にまとめられて大きな影響を与えたが、志半ばで没した。

不完全性定理

[ 1930年代, ]

不完全性定理 『ゲーデル 不完全性定理』
ゲーデル 著
(岩波文庫)

アメリカの数学者クルト・ゲーデル(1906-1978)が1931年に発表した定理。「一見矛盾のない理論体系のなかに、肯定しても否定しても矛盾が生じる命題が、必ず存在する」という第一不完全性定理と、「ある理論体系に矛盾がないとしても、その理論体系は自分自身に矛盾がないことを、自らの体系の内部では証明できない」という第二不完全性定理のふたつからなり、いずれも数学基礎論のなかでももっとも重要な定理とみなされている。当時の数学界では、巨匠ダフィット・ヒルベルト(1862-1943)を中心に、どんな問題でも真偽の判定が可能であることを証明しようとする「ヒルベルト・プログラム」がさかんに展開されていたが、この野心的な企ては、ゲーデルの発表したふたつの定理によって事実上頓挫してしまった。ちなみに、この定理は数学のみならずほかの論理体系にもほぼそのまま応用可能であり、科学哲学などにも大きな影響を与えた。とりわけ、「ボクは嘘つきである」という命題が真偽いずれだと仮定しても矛盾が生じてしまう「自己言及のパラドックス」は、この定理の代表例としてしばしば言及される。

摩天楼

[ 1930年代, ]

摩天楼 ©joyphoto.com

超高層建築(日本では高さ100メートル以上、欧米では150メートル以上のものを指す場合が一般的)がつくりだす都市景観の名称。もともとは大型帆船のマストから派生した言葉だが、空際線をなぞるかのような景観が「天を摩する」ように見えることから、摩天楼という日本語が定着した。史上初めて摩天楼が出現したのは1930年代のニューヨークで、「エンパイアステートビル」(1931年)を皮切りに続々と建設された超高層ビル群は、新たな都市文明と経済成長の象徴として衝撃を与え、多くの映画などの舞台ともなり、世界各国の都市計画に大きな影響を及ぼした。とりわけ国土の狭い日本では、超高層建築は容積率を高めることのできる手法としても注目され、70年代には東京・西新宿の一帯に世界でも有数の超高層ビル群が登場した。現在、世界最高の高さを誇っているのは「台北国際金融センター」(2004年)の508メートルだが、現時点でもこれを上回る高さの超高層ビルの建設計画が複数進行中であり、ニューヨークのグラウンド・ゼロ(世界貿易センター跡地)に建つ予定のフリーダム・タワーは高さ540メートル、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイに建設中のブルジュ・ドバイは約800メートル、また2008年7月に同じくドバイでの建設計画が発表されたナキール・ハーバー&タワーズは約1,000メートルにも達する予定である。

日本工房

[ 1930年代, ]

名取洋之助を中心に結成された写真家グループ。ドイツで写真家としての基礎を確立した名取は、帰国後日本におけるフォトジャーナリズムの必要性を痛感し、1933年に木村伊兵衛、伊奈信男、原弘、岡田桑三らとともに日本工房を結成したが、意見の相違から分裂し、名取以外のメンバーは翌34年に中央工房を結成した。いっぽうの名取は、同年に山名文夫、土門拳、河野鷹思、信田富夫、亀倉雄策、高橋錦吉、三木淳らの写真家・デザイナーを迎えて日本工房を再結成したが、その活動のハイライトは、何といっても対外宣伝誌『NIPPON』であろう。1934年から1944年にかけて通関36号に渡って刊行された同誌は当時としては珍しい本格的なグラフィックマガジンであり、米誌『LIFE』をモデルとした美しい印刷や大胆なレイアウトによって報道写真、グラフィック・デザイン、インテリア・デザインの各分野を新しく切り開き、中央工房を前身とする東方社が発行していた『FRONT』と双璧とみなされる。なお日本工房は、1939年には国際報道工芸株式会社と改名し、内閣報道局の下請け業務をこなしながら終戦時まで存続するが、その活動はジャーナリズムにこだわり、芸術写真を嫌悪していた名取の強烈な個性に左右される部分が大きかった。

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