ENIAC
Electronic Numerical Integrator and Computer
1946年に開発されたデジタル電子計算機。長らく世界最初のコンピュータと言われてきた。そもそもは大砲の弾道計算を目的に構想されたもので、ジョン・エッカートとジョン・モークリーという2人の技術者が米陸軍より資金提供を受けて1943年より開発に着手、戦後にはペンシルバニア大学へと研究拠点を移して完成された。約20,000本の真空管と7,000基の抵抗器を使用するなど本体の大きさは体育館ほどもあり、また記憶媒体を備えていないため計算のたびに最初からプログラムを入力しなければならなかったこと、リングカウンターという回路を用いて十進法で計算を行なうことなど、二進法を基準とする今日のコンピュータとの相違点も少なくなかったが、故障が少なくその稼働率は極めて高かった。プログラム内蔵型の次世代コンピュータEDVACが開発されたことに伴って1955年には活動を停止、現在は分解された部品がスミソニアン博物館やペンシルバニア大学などに保管されている。コンピュータ研究の進展に伴い、世界最初のコンピュータという定説には異論が提出されるようになっているが、その後トランジスタ、IC、LSIへと進んでいくハードウェア開発の起点に位置づけられる存在であることは間違いない。
MEMEX
MEMory EXtender
ヴァネバー・ブッシュが提唱した記憶拡張装置の略称。ブッシュはMITでアナログ計算機の研究に取り組んでいた数学者で、第2次世界大戦中は原爆開発プロジェクトである「マンハッタン計画」の指揮をとっていた。仕事の必要上膨大な数の文献に目を通さなければならなかったブッシュは、多くの文献やレポートを関連づけて相互に参照することをできるようにし、作業効率を大きく高めるテクノロジーの必要性を実感し、1945年の論文「我々が考えるように」でその構想を始めて提唱した。同論文には、資料撮影用のカメラ、マイクロフィルム、フィルム投影及び書き込み用のスクリーンが一体化した机のイラストが掲載されており、ブッシュが机に座ったままで図書館の多数の文献を検索できるデバイスを構想していたことがわかる。ブッシュ自らは実現できなかったこの構想は後年、米海軍のレーダー技師ダグラス・エンゲルバートが開発したNLS(oN LINE SYSTEM)へと継承されていく。コンピュータに懐疑的だったブッシュはマイクロフィルムをデバイスの中心として考えていたのだが、結果的にその理念はハイパーテキスト概念の先駆を為すものであった。
オーガニック・デザイン
Organic Design

『オーガニック・デザイン-21世紀を拓くコンセプト』
三井 秀樹 著
(平凡社)
1940年、ニューヨーク近代美術館にて「近代家具のオーガニック・デザイン」と題するコンペが開催され、チャールズ・イームズとエーロ・サーリネンが共同で提出した「オーガニック・チェア」が椅子部門の第一席を獲得した。2人は成形合板を用いれば自由な曲線と曲面を備えた家具を低コストで量産できることに注目し、背と座を一体化して柔らかみのある3次元成形を施した椅子を作りだしたのである。そもそもオーガニック・デザインという名称は、生体組織が必ず有機物(炭素)を含んでいることにちなんで、生命的な躍動感やエネルギーを感じさせるデザインということで発案されたものであるが、それに対して2人が示した回答は、動植物の自然な丸みや柔らかみを連想させる3次元曲線のデザインというものであった。このように、自然発生というよりはコンセプト先行型の由来をもつオーガニック・デザインだが、現在では自然な曲線美を実現するデザインという意味で幅広く定着しており、バロックやアール・ヌーヴォーのような伝統的な様式の再解釈やフラクタル幾何学のような先端テクノロジーに由来する造形まで、オーガニック・デザインという比喩によって語られることが少なくない。
サイバネティックス
Cybernetics
生理学、機械工学、通信工学などを束ねた新しい学問。別名を自動制御学ともいう。1948年、アメリカの数学者ノーバート・ウィナーが同名の書物によって提唱した。もともとは「技」や「舵取り」を意味するギリシャ語キベルネテス(Κυβερνήτης)に由来する概念であり、19世紀にはフランスの科学者アンペールが政治学の制御法としてのサイバネティックスを提唱したこともあるが、ウィナーはこの概念をテクノロジーへと適応し、生体が環境に順応するために駆使しているさまざまな技術や制御法を機械にも応用することができる考え、情報のフィードバックによる自動制御を提唱した。その核心は、1-調整部「管理する機械そのものがもつシステム」、2-操縦部「機械を操縦する人間の誤差修正のシステム」、3-統治部「人間を指導する集団のダイナミズムをふくむシステム」という3つのシステムの統合が必要であるという見解にまとめられている。この概念は情報科学や人体工学はもとより、神経学や経済学など多くの分野に強い影響を与えたが、ハイデッガーによるウィナー批判をはじめ、ややもするとテクノロジー礼賛に見えるその方向性に対する懐疑的な見方も初期の頃から存在した。
ペンタゴン
Pentagon
『インサイド ペンタゴン』(DVD)日経ナショナル ジオグラフィック社 著・編集
アメリカ国防総省の本部庁舎。国防総省自体をこのように呼ぶ場合もあるが、多くは庁舎の建物のことを指す。五角形の壁を五層に渡って重ねたような形状をしていることから、ペンタゴンの通称が定着した。ワシントンD.C.郊外のバージニア州アーリントンのポトマック川河畔に所在し、川の向こう岸にはワシントン記念塔が建つ。陸軍省の本部が手狭になったため新しい本部庁舎が必要となり、1941年9月に着工、鉄骨をあまり使わない工法によって急ピッチで工事が進められ、1943年1月に竣工した。工事を担当した陸軍工兵隊を指揮したレズリー・グローブスは、マンハッタン計画を指揮して原爆開発を推進した軍人でもある。敷地面積は29エーカー(中央の中庭は5エーカー)、延床面積は61万6540平方メートルに達し、世界最大のオフィスビルのひとつに数えられる。5階建てで高さは24メートルと低いが、各階に環状の通路が廻らされるなど、スムーズな移動を最優先した導線が確保されている。第二次世界大戦後の1947年に陸軍省より改組された国防総省の本部となり、現在では陸・海・空軍と海兵隊の4軍の本部機能が置かれている。2001年9月11日の同時多発テロの標的となったが、早期に機能を回復した。
ラスコー洞窟壁画
Lascaux Cave Painting
フランス西部のドルドーニュ県、ヴェゼール渓谷モンティヤック村近辺に所在するラスコー洞窟に描かれた壁画。スペインのアルタミラ洞窟の壁画と並び称される洞窟壁画である。1940年9月、洞窟付近で遊んでいた地元の子どもたちによって発見された。主洞、支洞、奥洞からなる洞窟には馬、野牛、羊、山羊、鹿などの動物や人間の手形などが多数描かれていた。これらの絵は獣脂、樹皮、炭、血などを原料とした顔料を動物の毛皮でつくった筆や手を使って描いたものと推測されるほか、動物のなかには遠近法の図式によって描かれているものもあり、描いた人々の高い文化水準が察せられる。発見当初は後期旧石器時代前半のものと思われていたが、その後の調査研究によって、現在では後期旧石器時代後半、約1万5,000~1万6,000年前に描かれたものというのが定説となっている。「ヒトはなぜ絵を描くのか」という関心を広く呼んだこの洞窟壁画は人気を呼び、多くの観光客を集めたが、二酸化炭素による壁画の損傷がひどかったため、1963年には一般公開が禁止されて修復が進められ、現在は1日数名程度の研究目的での鑑賞のみ認められている。1979年には、この壁画が描かれたラスコー洞窟を含むヴェゼール渓谷一帯の洞窟郡が世界文化遺産に指定された。
原子爆弾
Atomic bomb
長崎型原子爆弾(ファット・マン)提供:広島平和記念資料館
ウラン235やプルトニウム239の核分裂反応を利用した爆弾。通常兵器と比べて破壊力、殺傷力が桁違いに大きく、また放射能や汚染物質による被害も深刻であることから、現在では大量破壊兵器に分類される。核分裂を利用した爆弾の研究開発は当初ドイツが先行していたが、亡命ユダヤ人科学者らはルーズベルト大統領にナチスの脅威を進言、これを受けてアメリカ政府は1942年に核開発の研究着手を決定、レズリー・グローブスを責任者に、ロバート・オッペンハイムを科学部門のリーダーに指名してマンハッタン計画をスタートさせた。約20億ドルの巨費を投じ、多くの研究者が参加した緊密な産軍共同の結果、アメリカはドイツに先んじて人類史上初の原子爆弾開発に成功し、1945年7月16日にはニューメキシコ州の砂漠で初の核実験を実行、また8月6日と9日には広島と長崎に原爆を投下して第二次世界大戦の終了を決定づけた。なお、ナチスによる新型爆弾開発の可能性をルーズベルト大統領にあてて警告した最初の手紙は、アルバート・アインシュタインの名義で送られているが、アインシュタイン自身は原子爆弾の製造に関しては一切関与しておらず、マンハッタン計画の詳細も知らされていなかった。
抽象表現主義
Abstract expressionism
『ジャクソン・ポロック 新版』藤枝 晃雄 著
(東信堂)
1940年代後半~60年代初頭、アメリカで隆盛を迎えた抽象絵画の動向。代表作家としてジャクソン・ポロック、マーク・ロスコ、バーネット・ニューマン、ウィレム・デ・クーニングらが挙げられるほか、彫刻家のデヴィッド・スミスらも同じ一派にくくられることが多い。彼らの作品には、テーマや技法においてはそれぞれ異なるものの、大きなキャンバスの全面に絵具を塗布する描画法のほか、「地」と「図」の反転した無焦点もしくは多焦点な構図、深い精神性などの共通点が指摘できる。抽象表現主義とは、もともとカンディンスキーら大戦前のヨーロッパの抽象絵画を指す言葉であったが、多くの代表作家と密接な関係にあった美術評論家クレメント・グリーンバーグらの批評活動を通じて、戦後しばらくして現在のような意味が定着した。同時期のヨーロッパの抽象絵画の動向であるタシスムも、現在では抽象表現主義に統合して考えられることが多く、第二次世界大戦後に美術の中心地がヨーロッパからアメリカに移行した歴史的事実を象徴する動向としても考えられている。なお、ほぼ同義の概念としてアクション・ペインティングが挙げられるが、こちらは作品の形式よりも作家の身体性に力点を置いて命名された用語である。
流線形
Streamline
エアフロー1934年型提供:株式会社コモテック
鋭利な構造物を滑らかな曲線によってかたどった形状。自然界では魚類の形状などに認められる。20世紀初頭に物理学の分野で提起され、力学的な抵抗因子を制御し、空気や水の抵抗を最小限に押さえて、スピードを高めたり燃費を向上させたりすることのできる効果に着目して研究が進められた。1934年、米クライスラー社が発売した大衆車「エアフロー1934年型」が大人気を博したのを機に流線形は一気に大衆化され、自動車や飛行機などの工業デザインのほか、建築やファッションなど多くの分野に応用された。レイモンド・ローウィーやヘンリー・ドレイフェスらがデザインした多くの量産品の優美なシルエットは、マシーン・エイジとも呼ばれたこの時代の精神を体現したものであり、1939年のニューヨーク万博は、その頂点に位置づけられるイベントである。ほどなくしてドイツや日本でも注目を集め、アメリカでの関心が薄れた1940年代以降も、これらの国ではナチズムや大東亜共栄圏と結びつく形で多くの工業デザインへと取りいれられていった。優生学などと結びつきやすい危険が指摘されることもあるが、スピードと合理主義を追究した結果を具体的な形として表現した、20世紀前半を代表する科学イメージのひとつに数えられる。
空想の美術館
Musée Imaginaire

『アンドレ・マルロー伝』
中野 日出男 著
(毎日新聞社)
フランスの作家アンドレ・マルローが1947年に出版した『東西美術論(原題;芸術の心理)』で提唱した概念。無数の作品図版を収集、配列したものを空想上の美術館になぞらえたもの。印刷や写真など複製技術の発達を背景とした概念であり、現実には不可能な世界中の「泰西名画」のコレクションや展示を可能とするばかりか、多くの作品を容易に比較対照できるようになった結果、新しい画期的発見が生まれ、美術史の記述が大きく変わる可能性をもはらんでいる。マルローがこの概念を着想したのは、親友であったピカソの絵画がアフリカの黒人彫刻から決定的な影響を受けていることを知って、その関係を相互参照できる美術館の必要性を痛感したことが大きなきっかけであり、また晩年には自ら「空想の美術館」と題する展覧会を企画したこともある。バーチュアル・ミュージアムやデジタル・アーカイヴが浸透した現在では、その可能性をいち早く予見した先駆的概念としてしばしば言及されるようになった。比較的類似した概念としてはアビ・ヴァールブルクの図像アトラス 「ムネモシュネ」が挙げられるが、こちらは遥かに学術的色彩の強いものである。




