キネティック・アート
Kinetic Art
動きを含む、もしくは動いて見える美術作品の総称。ただしその範囲は人力、風力、電力などを動力とする可動域を持つ立体作品にほぼ限定され、映画やアニメーションなどの平面作品は対象外である。マルセル・デュシャン、ナウム・ガボ、ラズロ・モホリ=ナギらの立体作品など、可動域を組み込んだ作品は20世紀の前半より試みられていたが、美術の一動向としてのキネティック・アートは、50年代にアレクサンダー・カルダーが金属の板と棒を組み合わせて制作した一連のモビール作品によって初めて一般化され、その後60年代にはニコラ・シェフェール、ジュリオ・ル・パルク、ジャン・ティンゲリー、ブルーノ・ムナーリらが相次いで独自の特徴を備えた作品を発表、現在では野外彫刻などでしばしば見かけられるようになった。作品の傾向としては、メカニカルな造形を追求したものや機械文明への批判を孕んだものなどが挙げられるが、いずれの場合にも動力学(ダイナミズム)としてのキネティックが作品の基本的な要素であることに変わりはない。同時代の美術の動向と対比してみると、「視覚芸術探求グループ(GRAV)」や「グループ・ゼロ」、あるいは「グルッポT」やオプ・アートなどとも重なり合う部分が少なくないが、当然のことながらその厳密な区分は困難である。
グループ・ゼロ
Groupe Zero
1957年、旧西ドイツのデュッセルドルフで、オットー・ピーネとハインツ・マックを中心として結成された前衛芸術グループ。後にギュンター・ユッカーも加わった。ゼロというグループ名は、宇宙船が発射するカウントダウンの瞬間 にちなんでおり、ひとつの音の終わりから次の音が始まるまでの沈黙と、その沈黙に内在した創造行為を目指す言葉として名づけられた。キネティック・アートやライト・アートのデモンストレーションなど、テクノロジーを活用した環境芸術を精力的に制作したが、なかでも着色ガスを巨大なバルーンに詰めて浮上させ、照明を当てたピーネの『光のバレエ』は著名である。これらの試みの背景には、表現主義的なドイツ美術の伝統と訣別して、抽象的な表現によって知覚を探求しようとする意図があった。他国の前衛グループとのコラボレーションにも積極的で、アメリカでも展覧会を開催した後の1966年に解散するが、その後もピーネは多数の電球を用いた照明プロジェクトである『電気の花』を、一方のマックもサハラ砂漠で金属彫刻を用いた砂と風のセレモニーを実現するなど、ともに精力的に活動した。
ヌーヴェルヴァーグ
Nouvelle vague
『ゴダールに気をつけろ!』杉原 賢彦 編集
(フィルムアート社)
「新しい波」。1950年代末に起こったフランスの若手作家による新しい映画運動を示す言葉で、1957年に「エクスプレス」誌が「新しい波来る」というコピーを掲げたことが起源とされる。具体的には、「カイエ・デュ・シネマ」の主宰者であった映画評論家アンドレ・バザンの強い影響下にあったカイエ派(セーヌ右岸派)と、モンパルナス界隈を拠点にドキュメンタリー色の強い作品を制作していたセーヌ左岸派とに大別され、それぞれ前者はジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、クロード・シャブロル、ジャック・リベット、後者はアラン・レネ、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダらを代表格とする。いずれにも属さない作家としてはロジェ・ヴァディムやルイ・マルが挙げられる。彼らの多くは、三文小説などを原作に、即興演出、同時録音、ジャンプカットなど、伝統的な文芸映画などとはまったく異なる映像文法に基づく作品を制作して観客の驚きを誘い、マルの『死刑台のエレベーター』(1957年)やゴダールの『勝手にしやがれ』(1959年)などの傑作を通じて、その名声は国際的なものとなった。
ネオ・ダダ
Neo Dada
1950年代末~60年代初頭のアメリカで展開された、アッサンブラージュやコラージュ、さらには既製品の上から絵の具を塗りこめるコンバイン・ペインティングなどの技法を駆使した前衛的な美術運動の名称。ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ、アラン・カプロー、サイ・トゥオンブリらが代表格で、クレス・オルデンバーグ、ジム・ダインらを含めて考える場合もある。「アートニューズ」誌の58年1月号で美術批評家ハロルド・ローゼンバーグが言及したのが最初で、60年代以後同じく美術批評家バーバラ・ローズらの言説を通じて人口に膾炙(かいしゃ)していった。この場合のダダとはもちろんダダイズムに由来する名称だが、廃材を多く用いた彼らの作品は別にジャンクアートと呼ばれることもあり、工業社会への批判的な眼差しを孕んでいる点では大いに異なっている。またジョーンズとラウシェンバーグの2人には、抽象表現主義の次を担う新しい表現を目指す姿勢が顕著であった。ラウシェンバーグが「ブラックマウンテン・カレッジ」で学んでいたこともあり、ジョン・ケージのチャンス・オペレーションからの影響がしばしば指摘されるが、その一方では日本の「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」に対しても大きな影響を与えた。
ハプニング
Happening
1950年代~70年代にかけて、ギャラリーや市街地などを舞台として展開された非再帰的な身体表現を指す言葉。ダンス、バレエや演劇とは異なり、あくまでも美術の一形式とみなされる。史上初のハプニングは1959年、ニューヨークのリューベン・ギャラリーで開催されたアラン・カプローの初個展「6パートに分かれた18のハプニング」とされている。この個展に際して、カプローはギャラリーの室内の中に木枠とビニールシートで3つの部屋に分けた小屋を作り、そのなかで自分自身を含む6人のアーティストが事前に用意したシナリオに従って行う身体表現を披露し、観客の大きな反響を呼んだ。カプローは以前からジャクソン・ポロックのドリッピング絵画に傾倒しており、絵画制作における身体性をアッサンブラージュや環境という要素を取り込んで発展させることによって、双方向的な身体表現としてのハプニングというアイデアにたどり着いた。その後、空間を作品化しようとする発想はインスタレーションへと、一方より能動的な身体表現を実践しようとする発想は、フルクサスによるイヴェントや80年代以後のパフォーマンスへと継承されていった。時期的にはカプローと前後して過激な身体表現を試みていた具体美術協会や草間彌生らの作品もハプニングの一種である。
ブラジリア
Brasilia
提供:「ブラジリアへようこそ」ブラジルの首都。内陸部の標高約1100メートルの高原地帯に建設された計画都市で、行政的には連邦直轄地区としてほかの26州と同様の権限を有する。ポルトガルからの独立以来、ブラジルは旧首都であるリオデジャネイロやサンパウロなど、広大な国土の南端に位置する大都市に人口や資本が偏っており、19世紀以来遷都の必要が叫ばれていた。1956年、新大統領に当選したジュゼリーノ・クビチェクは内陸部への遷都を決断、5年間の任期中の新首都建設を目指してコンペを実施した結果、ルチオ・コスタが当選し、実際の設計実務はコスタとオスカー・ニーマイヤーの手に委ねられた。ブラジリアと名づけられた新首都はその後急ピッチで建設が進められ、1960年の供用開始時には、モダニズム様式によって建てられた国会議事堂、行政庁舎、最高裁判所による未来都市が出現し、その威容はいち早く世界に紹介された。ニーマイヤーの師にあたるル・コルビュジエは、ブラジリアを見て自らもなしえなかった都市計画を実現した弟子の偉業をたたえたという逸話も残っている。1987年には異例の早さで世界遺産に登録されるなど、その都市計画と景観は高く評価されているが、新首都建設に要した莫大な費用は、その後長年にわたってブラジル経済を大きく圧迫することになった。
ブラックマウンテン・カレッジ
Black Mountain College
1933年、アメリカ、ノースカロライナ州のブラックマウンテンに建設された芸術学校。「人々が共通の目的と責任を分かち合う共同体の確立と、芸術のもっとも高度な長所が花開くような風土を創造すること」を目標に、ナチスの圧力で閉鎖を余儀なくされたバウハウスから招かれたジョゼフ・アルバースらが教鞭をとり、その実験精神を継承するかのようなユニークな教育が行なわれた。1944年にはアッシュビルに移転し、それを機にジョン・ケージ、マース・カニングハム、リチャード・バックミンスター・フラーらが教員として着任し、またロバート・ラウシェンバーグ、ヘレン・フランケンサーラー、ブライス・マーデンらが受講生として参加、学校教育の方向性はさらに実験的なものとなった。その先駆的な教育は後のネオ・ダダやフルクサスにも大きな影響を与え、なかでもラウシェンバーグの「コンバイン・ペインティング」がケージの「チャンス・オペレーション」をヒントに考案された逸話は有名である。経営難のため1957年には閉鎖されたが、優れた人材を輩出し、戦後アメリカのアートとデザインの先端的な部分を担っていた意義はいまなお高く評価されている。
ロボット3原則
Three Laws of Robotics
『ロボットの時代 〔決定版〕 アシモフのロボット傑作集』アイザック・アシモフ 著
(早川書房)
ロボットが従うべきもっとも基本的な三原則。「ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない」「第一条に反しない限り、ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない」「ロボットは、第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない」の三項からなる。SF作家のアイザック・アシモフが短編小説集『われはロボット』(1950年)のなかではじめて提唱した。この三原則はアシモフの担当編集者であったジョン・W・キャンベルの助言によって考案されたもので、それまでのSFで主流を占めていたフランケンシュタインのようなモンスターとは明らかに異質なロボット観は、人道主義者であったアシモフの意向を強く反映していた。この三原則は以後のSFの世界観を大きく変える強い影響力を持っていたが、当時アシモフが想定していた自発的な思考能力を備えたロボットは半世紀を過ぎたいまもまだ実現されていない。21世紀になってソニーが開発したペット用ロボットの『AIBO』にも、ロボット3原則が適用されている。
具体美術協会
Gutai
『この上を歩いてください』(制作年:1955年)嶋本 昭三
1954年7月に、戦後美術の活性化を目的として大阪で結成された美術団体。メンバーは吉原治良、吉田稔郎、嶋本昭三、白髪一雄、田中敦子、村上三郎、金山明らで、リーダーである吉原の「いままでに見たことのない絵を描け」という挑発のもと、各自が過激な創作行為を繰り広げ、なかでも、白髪が半裸の姿で泥のなかで悶える「泥に挑む」や、村上が十数枚の衝立の紙を一気に突きやぶって走り抜ける「紙破り」などの活動は、今日のパフォーマンスの先駆をなしていた。その過激な実験精神は、吉原が1956年に発表した「具体美術宣言」に凝集されている。彼らの活動はいち早く海外にも紹介され、1957年に公開制作のために来日したミシェル・タピエとジョルジュ・マチウは、具体のメンバーと親しく交流し、彼らを日本のアンフォルメルとして高く評価したが、この交流を機に、それまで身体性を前面に押しだしていた具体の活動は絵画へと収斂していく。芸術運動としてのピークは短く、1958年の第2回合同展以後の活動は停滞したが、1972年の吉原の死まで組織は存続した。1970年の大阪万博期間中に催された「具体美術祭り」はその最後のハイライトであった。
実験工房
Jikken Kobo(Experimental Workshop)

『モビール・オブジェ(回転する面による構成)』北代省三
撮影:北代 省三
東京国立近代美術館所蔵
提供先:川崎岡本太郎美術館
多くの若手作家からなる前衛芸術グループ。1951年、日本橋髙島屋にて開催されたピカソ展の前夜祭をきっかけに結成された。命名者は詩人・美術批評家の瀧口修造で、彼の周囲に集ったメンバーは園田高弘、福島秀子、武満徹、湯浅譲二、鈴木博義、佐藤慶次郎、北代省三、秋山邦晴、山口勝弘、駒井哲郎、福島和夫、今井直次など美術、音楽、文学の各ジャンルに跨っていた。1952年~1955年にかけて毎年実施された主催公演では、アルノルト・シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』、オリヴィエ・メシアンの『前奏曲集』、『世の終わりのための四重奏曲』、『アーメンの幻影』の日本初演など音楽が中心を占めていたが、その活動は絶えず美術との協働がはかられ、そのなかから北代や山口の造形作品が生まれてきた。創作バレエ『生きる悦び』を上演し、またテープレコーダーやスライド写真を導入するなど、総合芸術やメディア芸術という観点からも、戦後美術史上いち早く重要な足跡を残している。グループは1957年に解散するが、ここを拠点に最初期の作品発表を行っていた武満徹は、ちょうどこの年に作曲した『弦楽のためのレクイエム』がストラヴィンスキーに絶賛され、その後の世界的評価の礎石を築いた。




