1960年代

2001年宇宙の旅

[ 1960年代, ]

2001年宇宙の旅 『2001年宇宙の旅』
スタンリー・キューブリック 監督
(発売:ワーナー・ホーム・ビデオ)
(価格:2625円(税込))

1968年に公開されたスタンリー・キューブリック監督のSF映画。前作『博士の異常な愛情』で核兵器による人類の終末を描いたキューブリックは、異星人とのファーストコンタクトをテーマとした次回作を構想し、SF作家のアーサー・C・クラークに科学考証を依頼する。ふたりのアイデアはまずクラークの小説に、ついでキューブリックの脚本にまとめられるが(そのため、厳密には小説は映画の原作ではない)、そのなかで最大の鍵を握っていたのが、物語の冒頭で類人猿を道具の使用へと導き、また物語の終盤で、木星探査旅行に出た宇宙船のクルーのうち唯一生きのこったボーマン船長がスター・チャイルドへと進化するきっかけともなった黒い石板(モノリス)と、史上最高のスーパー・コンピュータHAL9000の存在であった。撮影が長期化した結果、制作費は1000万ドルを超え、せりふのほとんどないとっつきにくい内容のため興行的にも成功とは言えなかったが、当時としては驚異的な特撮技術、美しい音楽、壮大な世界観は徐々に多くのファンへと浸透し、その後SF映画史上屈指の傑作のひとつに数えられるようになった。なおキューブリックは当初美術担当として手塚治虫の参加を要請したが、多忙のため実現しなかったという逸話が残っている。

E.A.T.

[ 1960年代, , ]

『Solstice《至点》』 『Solstice《至点》』
ロバート・ラウシェンバーグ
撮影:高山幸三
国立国際美術館蔵
提供:ICC

1960年代後半に活動していた前衛芸術グループ。グループの中心を占めていたのは、当時AT&T社のベル電話研究所に在籍していたエンジニアのビリー・グルーヴァーで、他にもロバート・ラウシェンバーグ、ロバート・ホイットマン、ジョン・ケージらの著名なアーティストが参加、ニューヨークを拠点に、美術、ダンス、音楽、映像などの各ジャンルを横断してアートとテクノロジーの境界を追求する活動を展開した。代表的なプロジェクトとしては、1966年に約40人のエンジニアが参加して開かれた「9つの夕べ――演劇とエンジニアリング」や1968年にブルックリン美術館で開催された「サム・モア・ビギニングス」展などが挙げられ、1970年の大阪万博にもペプシ館の展示によって参加している。その組織的活動は70年代半ばには終焉するものの、全盛期は数千人もの会員を擁したほか、1967年にマサチューセッツ工科大学(MIT)に設立された先端視覚研究センターの母胎となり、またパフォーマンスやコラボレーションの先駆的な役割を果たすなど、後の世代に与えた影響は大きい。2003年にはNTTインターコミュニケーションセンター(ICC)で回顧展が開催され、日本ではほとんど無名だったグルーヴァーの足跡がはじめて本格的に紹介された。

NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]
http://www.ntticc.or.jp/

「E.A.T.―芸術と技術の実験」展 アーカイブ・ページ
http://www.ntticc.or.jp/Archive/2003/EAT/index_j.html

アポロ計画

[ 1960年代, ]

アポロ計画 Photo credit:NASA

アメリカがジェミニ計画、マーキュリー計画についで展開した大規模な宇宙開発計画。1960年代初頭の発案時には有人地球周回飛行が主目的とされていたが、当時アメリカが宇宙開発競争でソ連の後塵を拝していたこともあってか、就任間もないケネディ大統領の強い意向によって、計画の目標は1960年代中の有人月面着陸へと修正された。1967年には具体的なミッションが開始され、試験飛行を繰りかえしたあとに1968年のアポロ7号より本格的な有人飛行へと移行、リハーサルによるデータの蓄積を経て、1969年7月16日にはアポロ11号が人類史上初の有人月面着陸に成功し、「これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」というニール・アームストロング船長のメッセージが全世界に向けて発信された。その後も数度に渡って有人月面着陸が行なわれるが、当初の目的を達成したこともあり、1972年のアポロ17号の有人飛行を最後に計画は終了した。国家の威信を賭けて天文学的な予算を計上したこの計画は、大手の軍需産業に多大な利益をもたらした半面、経済性の悪さがしばしば批判にさらされたため、以後アメリカの宇宙開発は再利用可能なスペースシャトル中心へと移行していく。

アンディ・ウォーホル

[ 1960年代, ]

『アンディ・ウォーホル』

『アンディ・ウォーホル』
クラウス・ホネフ 著
(タッシェン・ジャパン)

1928-1987.アメリカの画家、映像作家。本名はアンディ・ウォーホラ。ピッツバーグのスロヴァキア系移民の家庭に生まれる。身体は虚弱だったが幼い頃から造形の才に恵まれ、地元のカーネギー工科大学で絵画とデザインを修める。大学卒業後にニューヨークに上京、当初はイラストレーターとして活動する。50年代末よりファインアートへの参入を強く意識しはじめ、1962年、工業用塗料を用いてキャンベルスープの缶やブリロの段ボールなどの商品、マリリン・モンローやエルヴィス・プレスリーらの肖像を描いたシルクスクリーン作品を制作、一躍ポップ・アートの旗手として注目を集める。作者の署名さえ排除されたウォーホルの作品は、消費社会のダイナミズムをとらえた新しいタイプの美術として評価される一方、イラストレーションの延長に過ぎないとの批判も少なくなく、激しい賛否両論を巻きおこした。また映像にも強い関心を抱き、高層ビルを延々とうつした『エンパイア』など多くの実験映像を制作した。自らのアトリエを「ファクトリー」と称して多くの作品を量産し、またその世俗的な成功によってスターダムにのぼりつめた半面、暗殺未遂事件などのスキャンダルにも見舞われるなど、従来のアーティスト像を一新した存在でもある。

アースワーク

[ 1960年代, ]

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『アースワークの地平
 -環境芸術から都市空間まで-』
J.バーズレイ 著
三谷 徹 訳
(鹿島出版会)

石、木、鉄などを用いて、砂漠や草原などの自然環境に設置される作品の総称。大規模な土木工事によって大地を直接の制作素材とすることからランド・アートとも呼ばれる。もとより美術館やギャラリーへの収蔵は不可能であり、また多くの作品が人里離れた遠隔地に設置されているため、俯瞰写真によって鑑賞することが多い。ユタ州の湖沼に『スパイラル・ジェッティ』を築いたロバート・スミッソン、ネヴァダ州の砂漠に『円形の地表』を刻んだマイケル・ハウザー、スコットランドの荒地にストーンサークルを築いたリチャード・ロングらが代表的な作家と目される。いずれの作品も現象学や場所論からの影響やプリミティヴなネイチャー志向がうかがわれるが、その一方で彼らはみなミニマル・アートの出身でもあった。加えて、ケネディ・ジョンソン政権下の拡大主義に対する反発、泥沼化しつつあったヴェトナム戦争への厭戦感、ヒッピー的な志向、美術館による作品の収蔵や分類の拒絶など、その出現の背景には60年代の反体制的な気風がおおきく関わっていた。学生運動が終息した70年代にはいったん衰微するものの、その後よりコンセプチュアルな作品が制作されるようになった。時代背景や文脈を異にするものの、日本国内の養老天命反転地やモエレ沼公園も一種のアースワークとみなすことができる。

オプ・アート

[ 1960年代, ]

『OP RACE 20000000000』 『OP RACE 20000000000』(KPOキリンプラザ大阪『オプ・トランス!』展におけるインスタレーション)
宇川直宏
提供:キリンアンドコミュニケーションズ株式会社

オプティカル・アート(Optical Art)の略称。フランス語ではアール・シネティック(Art Cinetique)と呼ばれる。抽象絵画全般のなかでも、幻覚的な色彩、ハーマングリッドのような幾何学的な図像パターン、同時明度対比のようにコントラストを強調する技法など用いた強い錯視効果を持つものをさす。1965年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)にて開催された「レスポンシヴ・アイ」展がそのハイライトであり、同展の中核を為していたヴィクトル・ヴァザルリやブリジット・ライリーが代表的な作家と目される。美術の動向として考えた場合、オプ・アートは抽象表現主義の強い影響下にあり、またポップ・アート(オプ・アートという略称が定着したのは、この言葉との語呂のよさも要因である)やミニマル・アート、キネティック・アートとも密接な関係にあった。そのため、世代的にはやや前に属するものの理論的な共通点の多いジョゼフ・アルバースがしばしば重要な先行者として位置づけられ、その一方で同世代の抽象画家でも背景を異にするエッシャーらはここには含められない。対象範囲は狭く、短命に終わったが、2001年に大阪で開催された「オプ・トランス」展をはじめ、現在でも錯視効果を用いた作品が登場するたびきまって参照される重要な動向である

グーテンベルクの銀河系

[ 1960年代, ]

グーテンベルクの銀河系 『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』
マーシャル・マクルーハン 著
森 常治 翻訳
(みすず書房)

カナダ出身のメディア論者マーシャル・マクルーハンが1962年に刊行した主著(日本語訳は1986年刊)。もともと英文学の研究で博士号を取得したカトリック信者であったマクルーハンは、1951年に『機械の花嫁』の刊行を機にメディア論へと進出するが、この新しいジャンルのパイオニアとしての評価を決定づけたのが同書であった。マクルーハンの関心は印刷文化が人間の経験を解体し、知性と感性を分離したとの仮説を立証することにあり、そのためにホメロス、シェイクスピア、ポープ、ジョイス、ド・シャルダン、ダンチッヒ、ハイゼンベルクなどのさまざまな文献を渉猟しながら、人間の知覚の変容や口語文化と活字文化の違いなどを分析することによって、印刷文化が西洋近代社会を形成するにあたって果たした役割を多角的に分析していく。その博引傍証な歴史記述は銀河系と呼ぶにふさわしいが、いっぽうで同書では現代の活字文化以降の展望も語られており、空間と時間の障壁が取りはらわれた「グローバル・ヴィレッジ」と呼ぶ時代の到来が予見されている。同書の刊行直後から、マクルーハンは「ウィリアム・ブレイクの再来」と絶賛されたが、確かにその予見には、今日のインターネット時代を先取りしている面も指摘できる。

メタボリズム

[ 1960年代, ]

『メタボリズム』 『中銀カプセルタワービル』
撮影:大橋 富夫
提供:(株)黒川紀章建築都市設計事務所

1960年代の日本を代表する建築運動。創設メンバーには浅田孝、川添登、菊竹清訓、黒川紀章、栄久庵憲司、粟津潔がおり、1960年に東京で開催された「世界デザイン会議」を機に「来るべき社会の姿を、具体的に提案するグループ」として結成された。会議と同時に出版されたマニフェスト『METABOLISM/1960』(この提案には、創設メンバー以外にも槇文彦と大高正人が参加した)には、創設メンバーによる「塔状都市」「海上都市」「新宿ターミナル再開発計画」などのプロジェクトが収められており、「建築や都市は閉じた機会であってはならず、新陳代謝=metabolismを通じて成長する有機体であらねばならない」という明快な主張が展開されている。そこには、高度成長期を迎えつつあった当時の趨勢に加え、多くのメンバーにとって師匠的な存在であった丹下健三の強い影響を容易に指摘することができる。多くの計画は日の目を見ることはなく、1970年の大阪万博を最後の花道として歴史に埋没していったが、現在では、東南アジア諸国をはじめ、日本発の建築運動が国際的に強い影響力を持った先例として再評価されている。

ヴィデオ・アート

[ 1960年代, , ]

アーティストが撮影・制作したヴィデオ作品の総称。制作媒体にヴィデオを用いている点でフィルム撮影の実験映像とは区別されるほか、上映にあたってもスクリーンと同様にモニターを用いることが多い。ハプニングやイヴェントの様子をヴィデオに収録したり、抽象的な図像をモニターにうつしたり、作品の傾向はきわめて多岐にわたる。起源には諸説あるが、1963年、フルクサスのアーティストであったナム・ジュン・パイクがドイツ・ヴッパタールのパルナス画廊で展示したインスタレーション作品を史上初のヴィデオ・アートとみなす見解が有力。ちょうどこの時期に世界初の家庭用VTRとポータブルVTRが開発・市販されたことも多くのアーティストの関心を後押しした。代表的な作家としては、パイクのほかにビル・ヴィオラ、ブルース・ナウマン、ウッディ・ヴァスルカらが挙げられる。彼ら第1世代の多くがヴィデオ・アートをコンセプチュアルな枠組みでとらえていたのに対して、アントニオ・ムンタダスやピーター・ウェイベルら次世代の作家は、ヴィデオがひろく普及し観客の視線がおおきく変化したことを受け、また違ったアプローチを試みるようになった。日本では山口勝弘や中谷芙二子らが先駆者として、藤幡正樹らがその次を担う世代として知られている。

読売アンデパンダン展

[ 1960年代, ]

東京都美術館を主会場として開催されていた読売新聞社主催の現代美術展。1949年、日本アンデパンダン展として始まり、1957年の第9回展より読売アンデパンダン展へと改称された。かつてフランスで権威主義的なサロン(官展)に対抗して催されたアンデパンダン展にならい、「無資格、無審査、無賞、自由出品」を原則としたため、既存の美術団体の束縛を嫌う若手作家たちにとっては格好の発表の場であった。1960年の第12回展にはネオダダイズム・オルガナイザーズや九州派の若手作家が大挙して参加、日用品を転用したオブジェや即興的なハプニングなど、実験的な作品が多数出品され、その無秩序な表現は「反芸術」と呼ばれた。この頃より同展の出品作品は過激化の一途をたどり、1962年の第14回展では、業を煮やした主催者が今までの原則を覆して出品作品に一定の禁則事項を設けた。しかしそれでも作品の過激化はおさまることがなく、1964年の第16回展の直前に急遽中止が決定され、その後も再開されることはなかった。多くの作家の登竜門となるなど、戦後美術史上の重要性は疑いないが、その半面で大手マスコミによる芸術助成の限界を示した展覧会だったともいえる。