A・M・カッサンドル
Adolphe Mouron Cassandre (1901-1968)
フランスのポスター・デザイナー。本名アドルフ・ジャン=マリー・ムーロン。ウクライナのハリコフに生まれ、後にフランスに移住し、アカデミー・ジュリアンで美術を学ぶ。1920年代初頭より、ギリシア神話の預言者カッサンドルにちなんだペンネームを名乗ってポスター・デザインを発表しはじめ、1925年のパリ現代装飾美術・工芸美術国際博覧会(通称アール・デコ博)でポスター大賞を受賞し、一躍最前線に躍り出た。代表作に『北極星号』『北方急行』(1927)、『アトランティック号』(1931)、『デュボ・デュボン・デュボネ』(1932)、『ノルマンディー号』(1935)など。その船や列車のポスターは都会的な雰囲気とテクノロジーやスピードへの強い憧憬を感じさせるアール・デコ色の強いものであり、またキュビスムの影響と思しき幾何学的な造形にも際立った特徴があった。従来は画家の仕事とされていたポスター制作を広告デザインの1ジャンルとして確立し、またフィクス・マソーらの弟子を養成したことから「現代ポスターの父」とも呼ばれており、イヴ・サンローランのロゴデザインを手がけたことでも知られている。第2次大戦後は舞台美術や雑誌のデザインにも手を広げたが、人気が衰えるなど不遇な晩年を過ごし、失意のうちにピストル自殺した。
ICC NTTインターコミュニケーション・センター
ICC NTT InterCommunication Center

東京・初台の東京オペラシティ内に所在するメディアアートの展示を中心としたアートセンター。現在の運営母胎はNTT東日本。1989年、NTT(当時)が電話100周年記念事業として「21世紀ミュージアム構想」を発表したのを機に新しい美術館の計画がスタート、ほどなくして当時国内には皆無だったメディアアートの専門館とする方針が固まり、内幸町にプロジェクトルームを開設し、また機関誌「InterCommunication」を創刊するなどの準備を進め、1997年4月に現在の場所に鳴り物入りで開館した。大規模な企画展示室のほか、無響室などからなる常設コーナー、ガラス張りのショーケースを年表に見立てて、20世紀の芸術文化と科学技術を紹介した「アート&サイエンス・クロノロジー」、多くの蔵書を揃えた図書室などが設置され、また多くのメディアアート作品や映像アーカイブを所有する。そのいっぽうでは、杮落としを飾った「海市――もうひとつのユートピア」展以来、数多くのユニークな企画展を開催し、海外からも日本のメディアアートの拠点施設として評価されている。開館以来数度のリニューアルを経て、2006年6月以降は「ArtXCommunication=Open!」というコンセプトを掲げて活動を行なっている。
アポロ計画
Project Apollo
Photo credit:NASA アメリカがジェミニ計画、マーキュリー計画についで展開した大規模な宇宙開発計画。1960年代初頭の発案時には有人地球周回飛行が主目的とされていたが、当時アメリカが宇宙開発競争でソ連の後塵を拝していたこともあってか、就任間もないケネディ大統領の強い意向によって、計画の目標は1960年代中の有人月面着陸へと修正された。1967年には具体的なミッションが開始され、試験飛行を繰りかえしたあとに1968年のアポロ7号より本格的な有人飛行へと移行、リハーサルによるデータの蓄積を経て、1969年7月16日にはアポロ11号が人類史上初の有人月面着陸に成功し、「これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」というニール・アームストロング船長のメッセージが全世界に向けて発信された。その後も数度に渡って有人月面着陸が行なわれるが、当初の目的を達成したこともあり、1972年のアポロ17号の有人飛行を最後に計画は終了した。国家の威信を賭けて天文学的な予算を計上したこの計画は、大手の軍需産業に多大な利益をもたらした半面、経済性の悪さがしばしば批判にさらされたため、以後アメリカの宇宙開発は再利用可能なスペースシャトル中心へと移行していく。
アンディ・ウォーホル
Andy Warhol

『アンディ・ウォーホル』
クラウス・ホネフ 著
(タッシェン・ジャパン)
1928-1987.アメリカの画家、映像作家。本名はアンディ・ウォーホラ。ピッツバーグのスロヴァキア系移民の家庭に生まれる。身体は虚弱だったが幼い頃から造形の才に恵まれ、地元のカーネギー工科大学で絵画とデザインを修める。大学卒業後にニューヨークに上京、当初はイラストレーターとして活動する。50年代末よりファインアートへの参入を強く意識しはじめ、1962年、工業用塗料を用いてキャンベルスープの缶やブリロの段ボールなどの商品、マリリン・モンローやエルヴィス・プレスリーらの肖像を描いたシルクスクリーン作品を制作、一躍ポップ・アートの旗手として注目を集める。作者の署名さえ排除されたウォーホルの作品は、消費社会のダイナミズムをとらえた新しいタイプの美術として評価される一方、イラストレーションの延長に過ぎないとの批判も少なくなく、激しい賛否両論を巻きおこした。また映像にも強い関心を抱き、高層ビルを延々とうつした『エンパイア』など多くの実験映像を制作した。自らのアトリエを「ファクトリー」と称して多くの作品を量産し、またその世俗的な成功によってスターダムにのぼりつめた半面、暗殺未遂事件などのスキャンダルにも見舞われるなど、従来のアーティスト像を一新した存在でもある。
アースワーク
Earthwork

『アースワークの地平
-環境芸術から都市空間まで-』
J.バーズレイ 著
三谷 徹 訳
(鹿島出版会)
石、木、鉄などを用いて、砂漠や草原などの自然環境に設置される作品の総称。大規模な土木工事によって大地を直接の制作素材とすることからランド・アートとも呼ばれる。もとより美術館やギャラリーへの収蔵は不可能であり、また多くの作品が人里離れた遠隔地に設置されているため、俯瞰写真によって鑑賞することが多い。ユタ州の湖沼に『スパイラル・ジェッティ』を築いたロバート・スミッソン、ネヴァダ州の砂漠に『円形の地表』を刻んだマイケル・ハウザー、スコットランドの荒地にストーンサークルを築いたリチャード・ロングらが代表的な作家と目される。いずれの作品も現象学や場所論からの影響やプリミティヴなネイチャー志向がうかがわれるが、その一方で彼らはみなミニマル・アートの出身でもあった。加えて、ケネディ・ジョンソン政権下の拡大主義に対する反発、泥沼化しつつあったヴェトナム戦争への厭戦感、ヒッピー的な志向、美術館による作品の収蔵や分類の拒絶など、その出現の背景には60年代の反体制的な気風がおおきく関わっていた。学生運動が終息した70年代にはいったん衰微するものの、その後よりコンセプチュアルな作品が制作されるようになった。時代背景や文脈を異にするものの、日本国内の養老天命反転地やモエレ沼公園も一種のアースワークとみなすことができる。
アート&ランゲージ
Art & Language
1968年に英国コヴェントリーで結成されたコンセプチュアル・アートのグループ。オリジナルメンバーはテリー・アトキンソン、デイビッド・ペインブリッジ、マイケル・ボールドウィン、ハロルド・ハレルの4人で、翌年より機関誌『アート&ランゲージ』の刊行を開始、1970年の第2号刊行を機に、アメリカを拠点とするジョゼフ・コスースが同国代表の編集者として参加し、彼を経由するかたちでソル・ルウィットをはじめとする多くのアーティストや批評家が同誌に寄稿するようになった。『アート&ランゲージ』誌上では、つねにモダニズム美術や美術と市場の関係などをめぐって激しい論戦が展開されたが、その背景には芸術とは何かを問おうとするコンセプチュアル・アートならではの問題提起が潜んでおり、また、言語や音楽をも素材とした彼らの制作活動と密接に結びついていた。一時は参加者が30名を越える活況を呈したが、つねにメンバーの離脱が絶えず、1977年の時点でオリジナルのメンバーはボールドウィンを残すのみだった。ボールドウィンがその後もアート&ランゲージを名乗り、作品を発表するいっぽうで、それを痛烈に批判するコスースとアトキンソンは1997年にアート&ランゲージ2を結成した。
アーモリー・ショー
Armory Show
1913年2月17日~3月15日、アメリカ画家・彫刻家協会の主催によって開催され、ニューヨーク、ボストン、シカゴを巡回した美術展。正式名称は「国際現代美術展」だが、ニューヨークでの会場がレキシントン街25番地にあった第69連隊の武器庫であったことから、現在では「アーモリー・ショー」の名が定着している。同展は、アメリカ美術をさらに発展させるためには同時代のヨーロッパ美術と徹底的に比較検討すべきとの立場から企画されたもので、開催前年には徹底した現地調査が実施された。約1600点の出品作品のうち、ヨーロッパ美術の比率は約3分の1であったが、その大半は印象派、後期印象派、フォーヴィズム、キュビスムなどのフランス美術によって占められており、アメリカにおけるモダンアート受容の方向性を大きく決定づけた。なかでも、マルセル・デュシャンの実質的な最後の絵画であった『階段を降りる裸体』(NO.2)の出品は、後のデュシャン本人がニューヨークに拠点を移してニューヨーク・ダダのムーブメントが始動するきっかけとなるなど、歴史的にも大きな意義を有していた。それまで「291」などのごく限られた場所でしか見ることのできなかったアメリカ現代美術は、大きな賛否両論を呼んだこの展覧会を機に隆盛を迎えるといっても過言ではない。なお現在「アーモリー・ショー」の名は、まったく同じ場所で開催されている大規模なアートフェアへと継承されている。
アール・ヌーヴォー
Art Nouveau

エミール・ガレ
『ひとよ茸ランプ』
(北澤美術館所蔵)
フランス語で「新しい美術」を意味する。19世紀末から20世紀初頭にかけて、西ヨーロッパ全域で広く流行した装飾デザインの総称。当時の流行であったジャポニズムの影響が指摘されることもある。その名は1895年、サミュエル・ビングがパリで開いた美術店「Maison d’art nouveau」(デザインはベルギーのアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ)に由来し、1900年のパリ万博に際して、パリ市の依頼を受けたエクトール・ギマールが市内の地下鉄の入り口を植物状の鋳鉄によって装飾したことをきっかけに、新素材である鉄やガラスを積極的に活用し、また優美な曲線や曲面を特徴とするこの新しい様式が広く普及することとなった。ほかにはエミール・ガレやルネ・ラリックのガラス工芸、アレキサンドル・シャルパンティエの家具装飾、チェコより上京していたアルフォンス・ミュシャのポスター・デザインなどがこの様式の代表例として挙げられる。ドイツやオーストリアではユーゲントシュティールとも呼ばれ、ウィーン分離派、チャールズ・レニー・マッキントッシュ、アントニ・ガウディら、類似した特徴を持つ同時代の他国のデザインもこの動向に含めて考えられることが多い。
アール・デコ
Art Déco

提供:東京都庭園美術館
1925年にパリで開催された「現代装飾美術・工芸美術国際博覧会」の略称に由来する新しいデザインの様式。同博覧会で好評を博して後、国際的に広まっていったことから「1925年様式」とも呼ぶ。様式史上の系統では前世紀末のアール・ヌーヴォーの後継に位置づけられるが、そこにはもはや優美な曲線美は認められず、その代わりにスピード感溢れる流線形や電波を擬態したジグザグ模様、太陽光を髣髴とさせる放射線などの直線的、幾何学的な図柄が多用されている。これは、合成樹脂、鉄筋コンクリート、強化ガラスといった新しい素材が生みだされ、また飛行機や自動車が世界を走りまわり、多くの工業製品が量産されるようになった1920年代の時代性や都市型消費社会の欲望を体現したものと考えられる。独特の様式は各分野に波及し、建築ではクライスラー・ビル、絵画ではアドルフ・カッサンドル、インダストリアル・デザインではレイモンド・ローウィ、宝飾品ではティファニー、ファッションではココ・シャネルらが代表例として挙げられる。日本でも杉浦非水のポスターデザインや旧朝香宮邸(現東京都庭園美術館)などにその影響が指摘される。一時期は低い評価に甘んじていたが、その機能美と装飾性が融合したデザインがまた再評価されつつある。
東京都庭園美術館
http://www.teien-art-museum.ne.jp
原子爆弾
Atomic bomb
長崎型原子爆弾(ファット・マン)提供:広島平和記念資料館
ウラン235やプルトニウム239の核分裂反応を利用した爆弾。通常兵器と比べて破壊力、殺傷力が桁違いに大きく、また放射能や汚染物質による被害も深刻であることから、現在では大量破壊兵器に分類される。核分裂を利用した爆弾の研究開発は当初ドイツが先行していたが、亡命ユダヤ人科学者らはルーズベルト大統領にナチスの脅威を進言、これを受けてアメリカ政府は1942年に核開発の研究着手を決定、レズリー・グローブスを責任者に、ロバート・オッペンハイムを科学部門のリーダーに指名してマンハッタン計画をスタートさせた。約20億ドルの巨費を投じ、多くの研究者が参加した緊密な産軍共同の結果、アメリカはドイツに先んじて人類史上初の原子爆弾開発に成功し、1945年7月16日にはニューメキシコ州の砂漠で初の核実験を実行、また8月6日と9日には広島と長崎に原爆を投下して第二次世界大戦の終了を決定づけた。なお、ナチスによる新型爆弾開発の可能性をルーズベルト大統領にあてて警告した最初の手紙は、アルバート・アインシュタインの名義で送られているが、アインシュタイン自身は原子爆弾の製造に関しては一切関与しておらず、マンハッタン計画の詳細も知らされていなかった。




