クリエイティブ・コモンズ

[ 2000年代, ]

『クリエイティブ・コモンズ』 『クリエイティブ・コモンズ―デジタル時代の知的財産権』
クリエイティブコモンズジャパン編集
Lawrence Lessig原著
(NTT出版)

知的財産の保護をはかりつつ、著作物の積極的な運用をめざして2001年にスタートしたライセンス活動。具体的には、著作者が自分の著作物を独占しなくてもよいと考える場合に、「表示」「改変禁止」「非営利」「継承」の4項目についてそれぞれ可否を決定し、利用者は著作者の定めた条件に従えば、無料で作品を利用できるようになるという形で運用される。対象となる著作物は文書、映像、音楽など多岐に渡る。本格的なインターネット時代を迎え、スタンフォード大学のローレンス・レッシグらがサイバー法学の観点から提唱した仕組みだが、実際の運用にあたっては専門的な法律知識は必要ない。しばしば著作権の放棄と誤解されがちだが、実際には著作権の保護とパブリックドメインの充実を両立させることで、クリエイターの自由な創作行為を促すことに主眼が置かれている活動といえよう。2004年にはアルス・エレクトロニカ賞を受賞。日本でもGLOCOM(国際大学グローバル・コミュニケーション・センター)の主導により「クリエイティブ・コモンズ・ジャパン」の設立準備が進められ、2007年にはNPO法人として認可された。利用にあたってのガイドラインは国際標準に沿ったものとなっている。

グループ・ゼロ

[ 1950年代, ]

1957年、旧西ドイツのデュッセルドルフで、オットー・ピーネとハインツ・マックを中心として結成された前衛芸術グループ。後にギュンター・ユッカーも加わった。ゼロというグループ名は、宇宙船が発射するカウントダウンの瞬間 にちなんでおり、ひとつの音の終わりから次の音が始まるまでの沈黙と、その沈黙に内在した創造行為を目指す言葉として名づけられた。キネティック・アートやライト・アートのデモンストレーションなど、テクノロジーを活用した環境芸術を精力的に制作したが、なかでも着色ガスを巨大なバルーンに詰めて浮上させ、照明を当てたピーネの『光のバレエ』は著名である。これらの試みの背景には、表現主義的なドイツ美術の伝統と訣別して、抽象的な表現によって知覚を探求しようとする意図があった。他国の前衛グループとのコラボレーションにも積極的で、アメリカでも展覧会を開催した後の1966年に解散するが、その後もピーネは多数の電球を用いた照明プロジェクトである『電気の花』を、一方のマックもサハラ砂漠で金属彫刻を用いた砂と風のセレモニーを実現するなど、ともに精力的に活動した。

グーテンベルクの銀河系

[ 1960年代, ]

グーテンベルクの銀河系 『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』
マーシャル・マクルーハン 著
森 常治 翻訳
(みすず書房)

カナダ出身のメディア論者マーシャル・マクルーハンが1962年に刊行した主著(日本語訳は1986年刊)。もともと英文学の研究で博士号を取得したカトリック信者であったマクルーハンは、1951年に『機械の花嫁』の刊行を機にメディア論へと進出するが、この新しいジャンルのパイオニアとしての評価を決定づけたのが同書であった。マクルーハンの関心は印刷文化が人間の経験を解体し、知性と感性を分離したとの仮説を立証することにあり、そのためにホメロス、シェイクスピア、ポープ、ジョイス、ド・シャルダン、ダンチッヒ、ハイゼンベルクなどのさまざまな文献を渉猟しながら、人間の知覚の変容や口語文化と活字文化の違いなどを分析することによって、印刷文化が西洋近代社会を形成するにあたって果たした役割を多角的に分析していく。その博引傍証な歴史記述は銀河系と呼ぶにふさわしいが、いっぽうで同書では現代の活字文化以降の展望も語られており、空間と時間の障壁が取りはらわれた「グローバル・ヴィレッジ」と呼ぶ時代の到来が予見されている。同書の刊行直後から、マクルーハンは「ウィリアム・ブレイクの再来」と絶賛されたが、確かにその予見には、今日のインターネット時代を先取りしている面も指摘できる。

具体美術協会

[ 1950年代, ]

『具体美術協会』 『この上を歩いてください』(制作年:1955年)
嶋本 昭三

1954年7月に、戦後美術の活性化を目的として大阪で結成された美術団体。メンバーは吉原治良、吉田稔郎、嶋本昭三、白髪一雄、田中敦子、村上三郎、金山明らで、リーダーである吉原の「いままでに見たことのない絵を描け」という挑発のもと、各自が過激な創作行為を繰り広げ、なかでも、白髪が半裸の姿で泥のなかで悶える「泥に挑む」や、村上が十数枚の衝立の紙を一気に突きやぶって走り抜ける「紙破り」などの活動は、今日のパフォーマンスの先駆をなしていた。その過激な実験精神は、吉原が1956年に発表した「具体美術宣言」に凝集されている。彼らの活動はいち早く海外にも紹介され、1957年に公開制作のために来日したミシェル・タピエとジョルジュ・マチウは、具体のメンバーと親しく交流し、彼らを日本のアンフォルメルとして高く評価したが、この交流を機に、それまで身体性を前面に押しだしていた具体の活動は絵画へと収斂していく。芸術運動としてのピークは短く、1958年の第2回合同展以後の活動は停滞したが、1972年の吉原の死まで組織は存続した。1970年の大阪万博期間中に催された「具体美術祭り」はその最後のハイライトであった。

空想の美術館

[ 1940年代, ]

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『アンドレ・マルロー伝』
中野 日出男 著
(毎日新聞社)

フランスの作家アンドレ・マルローが1947年に出版した『東西美術論(原題;芸術の心理)』で提唱した概念。無数の作品図版を収集、配列したものを空想上の美術館になぞらえたもの。印刷や写真など複製技術の発達を背景とした概念であり、現実には不可能な世界中の「泰西名画」のコレクションや展示を可能とするばかりか、多くの作品を容易に比較対照できるようになった結果、新しい画期的発見が生まれ、美術史の記述が大きく変わる可能性をもはらんでいる。マルローがこの概念を着想したのは、親友であったピカソの絵画がアフリカの黒人彫刻から決定的な影響を受けていることを知って、その関係を相互参照できる美術館の必要性を痛感したことが大きなきっかけであり、また晩年には自ら「空想の美術館」と題する展覧会を企画したこともある。バーチュアル・ミュージアムやデジタル・アーカイヴが浸透した現在では、その可能性をいち早く予見した先駆的概念としてしばしば言及されるようになった。比較的類似した概念としてはアビ・ヴァールブルクの図像アトラス 「ムネモシュネ」が挙げられるが、こちらは遥かに学術的色彩の強いものである。