タイタニック号

[ 1910年代, ]

タイタニック号 提供先:KUDOS MARINE

イギリス・ホワイトスターライン社が建造した客船。正式名称はR.M.S. Titanic。重量は4万6329トン、全長269.1メートル、幅28.2メートルに達し、進水時世界最大規模の大型船だった。ただし船速は22ノットで、シャンデリアや飾り窓を多用した豪華な内装やプロムナード・デッキのついたスイートルームが設けられるなど、速度よりは快適さを重視したつくりとなっていた。大西洋航路に就航し、1912年4月10日、サザンプトンからニューヨークに向けて処女航海に出航するが、5日後の夜にニューファンドランド沖で氷山に激突して浸水し、約3時間後には沈没した。そのときの乗員・乗客は計2224人であったが、救命艇の収容人員は最大でも1178人分しかなく、乗りそこねた1513人が死亡する史上最大の海難事故へと発展した。二重底と防水区画を採用していたタイタニック号は「不沈船」ともうたわれる堅牢な船体を誇ったが、出発時の手違いで双眼鏡を使えなかったことと、激突時に大きな亀裂が生じたのが致命傷となった。なおこの海難事件は、史上初めて「SOS」の国際救援信号が発信されたことでも知られており、小説や映画など多くの物語の題材ともなっている。

ダダ

[ 1910年代, ]

ダダ 『ダダ・シュルレアリスムの時代』
塚原 史 著
(ちくま学芸文庫)

1910年代半ばから1920年代前半にかけて、欧米の複数の地域で展開された芸術運動。ダダイズムとも呼ばれる。美術、写真、演劇、文学などの各分野に及び、反美学的、反道徳的な衝動を最大の特徴とする。1916年、スイス・チューリヒの「キャバレー・ヴォルテール」で、ルーマニア移民の詩人トリスタン・ツァラらが過激なパフォーマンスを行なったのが起源とされるが、フランス語で木馬を、スラブ系言語で相槌を意味する「ダダ」という言葉がこの運動に当てられた必然性は特にない。また、それからわずかに遅れて、パリ、ケルン、ベルリン、ハノーバーなどでも独自の過激な活動が展開されたが、背景でもあった第一次世界大戦の終焉に伴い、それらの運動は徐々に先鋭性を失い、シュルレアリスムへと回収されていった。いっぽうアメリカでも、ヨーロッパとほぼ同時期にマルセル・デュシャン、フランシス・ピカビア、マン・レイらが既成の美術や価値観に重大な疑問を提起する制作活動を展開したが、1913年のアーモリー・ショーを起源とする彼らの活動はヨーロッパのダダと直接の影響関係にはなく、またシュルレアリスムにも向かわなかった点で大きく異なっていた。

大ルーヴル計画

[ 1980年代, ]

大ルーヴル計画 『パリ・ルーヴル美術館の秘密』
(発売元:IMAGICA 販売元:レントラックジャパン)
(価格:5,670円(税込))

20世紀末に実施されたルーヴル美術館の大改造計画の総称。1981年に着任したフランソワ・ミッテラン仏大統領はルーヴル美術館の大改造を宣言、それまで一部の建物を占拠していた大蔵省を移転してルーヴル宮を美術館専用施設とすることが決定されるいっぽうで、大幅な展示面積の増加とサーキュレーションの整備を軸とする計画が始動した。1983年には大ルーヴル計画公団を結成して改造計画案のコンペを実施し、中国系アメリカ人建築家イオ・ミン・ペイの案が選出された。ペイの計画案は大規模な地下工事によってナポレオンの中庭の地下に受付ロビーを設置、そこから地上の各棟へとアクセスできるようにするもので、中庭には新生ルーヴルのシンボルであるガラス製のピラミッドが設置され、1989年3月にはその落成式が行なわれた。工事はその後も継続され、1990年代半ばまでには、ルーヴルは以前の約2倍の総展示面積を持つ巨大美術館として生まれかわった。ちなみに、このフランスの国家的な威信を賭けた大規模な計画には、観光客の大幅増による外貨の獲得という副産物をもたらした。日本でもこれに刺激を受けて、上野公園で大規模な地下工事を実施し各館をネットワーク化しようという上野ルーヴル構想が提唱されたことがある。

脱構築

[ 1980年代, ]

脱構築 『デリダ』
ジェフ・コリンズ 著
鈴木 圭介 翻訳
(筑摩書房)

フランスの思想家ジャック・デリダの中心をなす思想。ハイデガーの『存在と時間』に登場する「Destruktion」という概念を独自に解釈し、破壊のみならず建設的な意味合いを持たせたもので、内部/外部、自己/他者、善/悪、男/女など、古代ギリシア以来の西洋形而上学が確立してきた二項対立を打破し、そこから新しい差異を生みだそうとする意図を持つ(デリダはそうした新しい差異を、従来の差異「différence」と差別化するために差延「différance」と命名した)。1960年代にこの概念を着想して以来、デリダは多くの著作を通じてさまざまな問題を提起し、フランスの思想界で大きな議論を呼んだ。本来は哲学の概念だが、その議論は海を越えてアメリカにも波及し、ポール・ド・マンをはじめとする批評家が文学のテキスト解釈に応用、「脱構築派」と呼ばれる大きな勢力を築いた。さらに1980年代には、フランク・O・ゲーリーやピーター・アイゼンマンらの装飾的なデザインが脱構築にたとえられるなど建築の分野にも影響が及び、1988年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)にて「脱構築の建築」展が開催された。デリダ自身もアイゼンマンとの協働を試みたことがある。