ディズニー映画

[ 1930年代, ]

1923年に創設されたウォルト・ディズニー・カンパニーは、創業者であるウォルト・ディズニーの陣頭指揮の下次々と新しい作品を世に送りだしてきた。1928年には世界初のトーキー・アニメ作品『蒸気船ウィリー』を制作したディズニーは、1932年には世界初のカラー・アニメ作品『花と木』を、1937年には代表作『白雪姫』を制作し、最初の黄金時代を迎える。アニメーション映画は映画史の最初期より存在したが、その表現は総じて質が低く、大半の作品は実写作品の合間に上映される子供向けの息抜き程度にしかみなされていなかった。そこにディズニーは手間を惜しまない作画、子どもにも親しみやすい名作童話のアレンジ、動物キャラクターの擬人化などの手法を導入し、アニメーションを親子揃って楽しめる良質の娯楽映画へと高めたのである。ミッキーマウスやバンビ、ダンボのようなオリジナルキャラクターは子どもたちの大人気を博し、街では「ハイホー」や「口笛吹いて精出して」などの映画主題歌がひっきりなしに流れるようになった。その後ディズニーは一時期低迷するものの、アニメーター養成学校での後進の育成やディズニーランド開園 などの企業努力が実を結んで影響力を取りもどし、現在に至るまでアメリカ屈指の一大エンターテインメント産業として君臨しつづけている。

デ・ステイル

[ 1910年代, ]

第1次世界大戦後のオランダで興隆した芸術運動。デ・ステイルはオランダ語で「様式」を意味する。中心を担ったテオ・ファン・ドゥースブルフは大戦前から活躍していた気鋭の画家・評論家で、復員した1917年に同名の機関誌を創刊、絵画、建築、デザインなどの諸領域を通じて、赤・青・黄の基本三原色と単純な構成を重視した抽象度の高い造形理念を浸透させていくことを訴えた。ピューリタニズムを髣髴とさせる禁欲的な理念は同時代の多くのオランダ人の共感を呼び、なかでも抽象画家ピート・モンドリアンや「シュローダー邸」で知られる建築デザイナー、ヘリット・トーマス・リートフェルトらの参加を得たことによって、運動は大きな潮流を形成する。しかし、新造形主義を標榜し、垂直線と水平線のみの構成にこだわったモンドリアンと、エレメンタリズムに基づく対角線の導入を訴えたドゥースブルフの意見がぶつかり、結局1925年にはモンドリアンが離脱したのをはじめ、ドゥースブルフと意見の対立したメンバーの離反が絶えず、ドゥースブルフが亡くなった翌年(1932年)、未亡人が夫の遺稿を編んだ機関誌最終号の発刊をもって運動も終焉する。運動の展開がほぼオランダ国内のみに限られ、また理念を実践する学校や工房をもたなかったため知名度は低いが、今世紀初頭を代表するモダニズム芸術運動の1つであることに変わりはない。

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