ヨゼフ・ボイス

[ 1970年代, ]

『ヨゼフ・ボイス』 ヨゼフ・ボイス『ロシア皇帝冠を溶かす』 
Photo:Kanji Wakae

ドイツの現代美術家。ドイツ北西部の町クレーフェ生まれ。当初は医者を目指すが、レームブルックの彫刻やシュタイナーの神智学に傾倒して美術へと進路を変更し、第二次世界大戦後にはデュッセルドルフ芸術アカデミーに学び、その後母校の教員となる。従軍中の特異な体験からフェルトや脂肪を素材とした作品制作を思いつき、そのいっぽうで1960年代には国際的な美術運動フルクサスのメンバーとしても活動、いち早く自分の制作にパフォーマンスを取りいれた。1970年代に入ると、「緑の党」に深く関わって、反核を唱える政治運動の先頭に立つなど、ボイスの活動は急速に社会的、政治的な性格を強めていく。社会がひとつの芸術的総体であるとの立場に立つ彼は、パフォーマンスやエコロジー運動なども含めた自らの創作活動を社会彫刻として位置づけ、人間はだれでも芸術家であると主張し、一部の若者から熱狂的な支持を受けた。これらの活動が祟って1972年には母校の教授職を追われるが、教育熱心なボイスはその2年後にはだれでも自由に受講できる自由国際大学を開設し、ゲルハルト・リヒター、ジグマール・ポルケ、アンゼルム・キーファーといった戦後のドイツを代表するアーティストを輩出した。

読売アンデパンダン展

[ 1960年代, ]

東京都美術館を主会場として開催されていた読売新聞社主催の現代美術展。1949年、日本アンデパンダン展として始まり、1957年の第9回展より読売アンデパンダン展へと改称された。かつてフランスで権威主義的なサロン(官展)に対抗して催されたアンデパンダン展にならい、「無資格、無審査、無賞、自由出品」を原則としたため、既存の美術団体の束縛を嫌う若手作家たちにとっては格好の発表の場であった。1960年の第12回展にはネオダダイズム・オルガナイザーズや九州派の若手作家が大挙して参加、日用品を転用したオブジェや即興的なハプニングなど、実験的な作品が多数出品され、その無秩序な表現は「反芸術」と呼ばれた。この頃より同展の出品作品は過激化の一途をたどり、1962年の第14回展では、業を煮やした主催者が今までの原則を覆して出品作品に一定の禁則事項を設けた。しかしそれでも作品の過激化はおさまることがなく、1964年の第16回展の直前に急遽中止が決定され、その後も再開されることはなかった。多くの作家の登竜門となるなど、戦後美術史上の重要性は疑いないが、その半面で大手マスコミによる芸術助成の限界を示した展覧会だったともいえる。