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富野 由悠季(とみのよしゆき)
1941年生まれ。監督/演出家。60年代半ば、虫プロでTVアニメ『鉄腕アトム』の制作進行、演出を経てフリーとなり、夥しい数のアニメ・シリーズの絵コンテを書きまくる。70年代後半からは自らの原案・演出で、ロボット・アニメに新風を吹き込み、1979年の『機動戦士ガンダム』の大ヒット以後も、数々の話題作を提供し続けている。
今から四半世紀前、『機動戦士ガンダム』を世に送り出し、多くのファンのカリスマとしてアニメ界に独自の地位を築いてきた富野由悠季監督。近年はアニメ制作の傍ら、各地の大学に講師として招かれることも多く、独自の視点から今の若者たちを叱咤激励し続けている。21世紀にアニメ、映画にかかわろうとする人は、どういう人であるべきか、また何を考えなければいけないかを伺った。
——富野監督はアニメ業界に入りたいというと若者に対して、「アニメを見るな!」ということをおっしゃっていますね。
「アニメをやりたい」と口にする人がたくさんいるわけですが、アニメというのは作品じゃなくて、一媒体にすぎないわけです。作品を作るのはクリエイターですからね。クリエイターはアニメという媒体にかかわる技術を知らなくても作品を作れます。つまり、「作品を作る」ことと「アニメを作る」ことはまったく別のものなんです。クリエイターは、その時々に応じて、アニメという媒体、映画という媒体、演劇という媒体、音楽という媒体を使う。そうすると重要なのは、作品を作る「心」です。じゃあ、アニメが好きで、アニメばっかり見てきたっていう人に作品が作れるのか、というと、ハッキリ言い切ります。作れません! 現にアニメ好きが作ったアニメほどつまんないものはないじゃないですか? アニメという媒体を使って何をするのかということを持ってない人に、作品は作れないのです。
だからアニメの世界に入ってくるんだったら、20歳くらいまでは、とにかくアニメ以外のことに奮闘するということをやった上で来てほしいのです。僕は、作品の制作現場というのは基本的に異能の集団であるべきだと思ってますので、いろんなバックグラウンドを持った人材が必要なんです。最近、矢口史靖監督の『スウィングガールズ』という映画を観たんですけれども、たとえば、あの映画に出てくるようなジャズに夢中になっている女の子たちがアニメとかコミックの世界に入ってくるということが大事なんだと思います。若い時にリアルなものや生なものに触れ、そういうものが好きだ、という視点を持った人でないと、アニメやコミックの世界に参入してはいけないと思います。
たとえば『ほしのこえ』や新作『雲のむこう、約束の場所』で話題の新海誠さんだって、ずーっとアニメ一筋でいたのかというと、本格的にアニメに取り組む前に、食べるために仕方なくだったかもしれないけれど、別の職業についていたということが、彼にとってのいいスプリングボードになっていると僕は思います。アニメの他のことを知らなければ作品なんて作れないんです。
そうは言っても、芸能の世界には例外があるじゃないかという人もいるでしょう。歌舞伎の世界などでは世襲制というものがあって、名門と言われる家に生まれた子どもは二つ三つの時から舞台に上げられて、歌舞伎一筋で鍛えられていきます。それに倣えば、アニメを志す者がアニメ漬けでもいいと思います。でも、考えてみてください。歌舞伎の家に生まれた人が、そのやり方で全員が全員上手くやっていけるのかというと、そんなことはないわけです。今、世間に名前が出てる人たちはたしかに上手くいった。だけど、その陰に落ちこぼれてる人たちもいっぱいいるわけで、当然、そういう人たちの名前は出てきません。ですから、アニメをやりたいから、小さいときからアニメばっかりに一生懸命になるというのは大きな間違いです。
——アニメばかり見てきた世代のスタッフと作業をしていて、具体的に困ることはありますか?
まず、打ち合わせなどで日常会話が通用しないんです。これをハッキリと意識したのは『機動戦士Zガンダム』の頃ですからで、気配としては最初の『機動戦士ガンダム』の頃にはもうあったんじゃないでしょうか。25年前、つまり、アニメがそろそろ職業として世間に認知され始めた時期と重なります。それよりも前の、僕なんかがアニメの業界に入ってきた頃には、もうちょっと日常会話が使えたという感触があります。当時のスタジオにいた人たちには、大人の世界に打って出ようとする気概があったし、その隣では学生運動で旗を降ってたヤツもいたりして、とにかくちゃんと言葉が使えていました。今はまったくダメです! アニメ育ち、ビジュアル育ちの若い人たちには、頼むから社会に出るまでにきちんとした日常会話を覚えてきて欲しいとお願いしたいのです。彼らが分かる言葉をこっちが探さなければならないというのはこちらがやせてしまいますからすごく困るのです。
たとえば、「カッコイイ」という言葉で伝えようとしても、アニメとかコミックに出てくる「カッコイイ」もの以外はカッコイイと思えない子たちがいます。「これこれこういう美女を描いてくれ」と言っても、そこらへんのアニメやコミックに出てくるような美女しか描けない。彼らは、自分でスケッチをしても、そこから何かが生まれるということがない。裸婦像や自然を描きながら、そのミックスから新しい何かを生み出すことができないんです。それは、ここ20年の間に顕著に見られる現象で、だから最近のアニメ作品に出てくる絵のパターンはすべて「なんとか系」「誰それ系」と、簡単に系列化されてしまうので、それは媒体としてもジリ貧になっていくだけなのです。
――それでは、アニメや映像の業界に入ろうとする人、クリエイターたるべき人に、「これだけは最低限学んできて欲しい」と思われることはどんなことでしょうか。
小中高で教えてくれる一般教養のすべて、中でも一番重要なのは修身・道徳だと思います。つまり、公共に対して個というのはどうあるべきかという問題を考えて欲しい。そういうセンスを磨いて欲しいんです。作品を世に出すというのは公の行為なわけです。ニュートラルに見てエロスを感じる、ニュートラルに見てカッコイイというのが公共に供するべき作品。芸術作品であれば、それ以外の偏ったもの、変なものはあってもいい。ただ、それは公共に供するものではない。この見境をどこにつけるのかというところがまさに大人の見識で、このような話が分かる能力が必要なのです。
僕は、観る人の心の病を喚起するような、キレる人間を容認するような作品は絶対に作りたくないと思っています。僕自身もかつては非常にキレやすい人間でしたから、ここ数年起こっているような忌まわしい事件を起こしてる加害者の気分がすごくよく分かります。事件が起きた後に周囲の人が「あんなおとなしい子が……信じられない」なんてよく言いますけど、おとなしい子だからこそやってしまうのですよ。「アニメを見るな」っていうのは、そういう意味でも言っています。今、映像作品に携わっている人間が偏ったものを世に出しているから、そういう気配をもつ子たちの中に眠っていたものを喚起してしまうわけです。少年犯罪が起きても、事件と作品との関係性をまともに議論するとヤバいと思っているから、みんなで逃げ回るか、アーティスティックなレベルに話をすり替えて、勝手なことを言っています。もう少しニュートラルな言葉で、映画やアニメは「公共に対して供すべき作品」という言い方をしなくてはいけないと思います。
ビジュアルのメディアという、人が安易に見てしまえる作品を世の中に出すというのはかなり怖いことなんです。だから、自分の趣味指向だけでアニメを作ったり、映画を作るヤツは、許し難いのです。暴力にしても性描写にしても、映像作品として世に出すには、極めて節度正しく行われなければならないのです。だけど、お前のアニメの中にだって暴力が出てくるじゃないかと言われます。そういう視点が一番怖いのは、ただそこに暴力の絵が映っているだけで、それさえ隠してしまえばOKとするアバウトさです。そういう目線こそ、責任回避もいいところで、一番子どもを可愛がっていない人の言うことだと僕は思います。
学んでおくべきことに話を戻すと、数人、もしくは10人、100人、1000人の人が勧めるようなものは、読んだり、見たり、触れておいた方がいいだろうと思います。まあ、何のジャンルにしろ、「世界100選」と言われるようなものにはひととおり当たってみるべきでしょうね。しかしここにはひとつ落とし穴があって、実は、本当に優れた意見、卓見というのは、多数によって語られることはなく、いつも一人か二人のかなり勘のいいヤツ、天才だけが教えてくれるものなんです。だから「世界100選」がベストかと言われると多少怪しい(笑)。多数決的なものと優れた個人からの推薦の両方に耳を傾けるべきだと思います。
しかし、本当の傑作とか、優れた見識などというものは、世の中にそうそうないと思えるので、もっとも信じるべきものは……まさか自分がこんなことを言うことになろうとは思わなかったけれど……「格言」でしょうね(笑)。大体700〜800年の間、鍛えられてますから。そうですね、神話とか伝説といわれてるようなものをきちんと勉強しておけば、近年の作品なんかそれほど見ていなくても、十年後の作品を作ることが出来ます。今のことしか見てなくて、ファッションにとらわれて作ったものは、もって来年、再来年まではもたない。格言とか、神話、伝説だけをきちっと押さえておけば、人の肝は掴めますから、50年後まで、もつ気がします。
――アニメの制作現場も急速にデジタル化の波が押し寄せてきていますが、その中で失われたものはないでしょうか。
いっぱいあります。一番失われたものは手触りのようなもの、絵の質感ですね。ザラッとする手触り感がなくなったために、どんなにデジタル上で描き込んでも、クリーンに、解剖学的にはなるんだけれども、リアルにはならない。だから、デジタル技術を使って手触り感をどういう風に再現するかということを考えなくちゃいけません。でも、技術論ではもう行き着くところまで行っているわけだから、さっき言ったような、神話、伝説、格言などに描かれている、まさに人の心の、人間のコアな部分を掴んでいかない限り、どんなに拳銃のボディの写り込みとか重量感を表現したところで、観客には伝わる物語は創作できないでしょう。
ここ数年、デジタル技術を駆使してリアルなファンタジーを作ろうとした作品に『ハリー・ポッター』や『ロード・オブ・ザ・リング』のシリーズがありますが、あの中にファンタジーがあるかって聞かれても、「ない」って思います。ファンタジーというのはあんな風に解析的に作られた絵の中には宿らないんです。もう少しアバウトなものですね。人間というのはアバウトな手触りってものを享受することができます。そのためには絵の質感云々よりも先に、まず物語観があって、じゃあそれを表現するために、ビジュアルをどう使うかということを考えないといけないのです。話が一番初めに戻りますが、アニメや映画というのはあくまでも媒体ですから、そこに現れたデジタルという新しい技術をどう使うかってことを、これから構築していかなければならないでしょう。やることはいっぱいあると思います。
――来年から劇場版『機動戦士Zガンダム』三部作が順次公開されるということですが、約20年前のTVシリーズをなぜ今、劇場で?
そういうオファーがあったからです。僕はジョージ・ルーカスやスティーヴン・スピルバーグのように自分でプロダクションを作ることも思いつきませんでした。言い方を変えれば、社会的にアクションしなかった情けない人間ですから、誰かからオファーがなければ作品は作れません。ただ、断ることはできたはずです。実は10年前にも一度オファーがあったんだけれど、その時は断ってるんですよ。だけど今やるのは、自分にとって一番不満の残る作品でしたので、ケリをつけたかったという思いがあって、それをするのに自分の能力が今ちょうどいい状態にあると判断できたからでしょう。実際にやってみて、ケリをつけるだけの力がちゃんとあったらしいと分かったので、受けて良かったなと思ってます。
「お前らオレの作った『Z』分かんないの?」っていう作り方にはしてません。繰り返しになりますが、作り手、監督、アーティストの好き勝手だけで映画なんか作っちゃいけないというスタンスで、きちんと「公共に供するもの」としてまとめることのできる自分を確認できました。新たに描き起こしたカットもあって、元々の絵は20年前のものなわけですから、正直言って、そのギャップはあります。だけど面白ぇぞって自信があります。映画というものが持つべき構造とはこういうもんだろうと、半分は教材みたいなつもりでまとめました。これから20〜30年、映画を作る際のガイドラインになるようなものを作ったつもりです。この作品を超えるのは一見簡単そうに見えるだろうけど、そう見えるならやってみろって思いますね。(終)
取材・文: 山下 泰司
写真: 坂本 道浩

