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押井 守(おしい まもる)
1951年生まれ。映画監督。タツノコプロダクション、スタジオぴえろに所属後、1984年よりフリーで活動。斬新な映像世界に国内外を問わず、注目が集まる。
数々の斬新な演出で映像作家にも影響を与え続け、2004年3月に公開された『イノセンス』で、さらなる新境地を開拓した映画監督、押井守。TV、ビデオ、映画とさまざまなメディアでエポックメーカーとなってきた彼に、自らの表現がメディアといかにして関わってきたかを語ってもらった。
——押井監督は業界で初めてOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)というメディアで作品を生み、長編アニメ映画に本格的にデジタル技術を導入した先駆者でもある。そういう意味で、メディアというものにかなり意識的に関わられてきたと思うのですが。
僕がアニメ業界に入った70年代頃は、アニメを表現するメディアはTVしかなかったから、アニメの仕事はすなわち、TVの仕事だったんですよ。TVの仕事は基本的にはコマーシャリズムで、スポンサーの意向――つまり玩具や食品のメーカーの商品の宣伝が最優先されていたのね。
アニメに登場するグッズはすべて玩具メーカーが売っている商品だったし、アニメはそういうコマーシャリズムの延長として機能していた。だから極端に言えば、物語やドラマなんて二の次で、僕らより上の世代のアニメの現場の人たちは「オレたちの仕事は CMの拡大版みたいなものだ」ってハッキリ言ってたよ。そういう意味で、当時の現場には作品を作っているなんて意識は皆無だったし、それを求められてもいなかったんです。
——では、アニメが今日のように作家性や作品性を獲得するようになった要因は何だったのですか?
一番大きな要因は、ビデオデッキの存在だよね。ビデオというメディアの普及が制作者にもたらした最も大きな変化は“作品が残る”ということ。それまでのアニメは“残らない”という前提で作っていたから、オンエアに間に合えば何をやってもいいって考え方があった。セルや動画や背景の使い回しは当たり前で、逆にそれをパターンとして成立させちゃっていたわけだよ。ところがビデオによって自分たちが作ったものが“残るかもしれない”ということになった。
つまり、ビデオの存在がきっかけになって、匿名だったアニメの現場に個人の名前を要求しはじめたわけだよね。もう一方では、同時期に創刊ラッシュが相次いだアニメ雑誌の後押しもあって、人気のあるアニメーターや演出家がスターになることで、アニメもようやく特定の個人の作品として成立するんじゃないか、という匂いが現場に生まれたはじめたわけです。
――“作家性”が芽生えることで、アニメというビジネスの形態も変わっていきましたか?
僕の中では『パトレイバー』という作品がビデオシリーズで始まったということが大きな契機になっているんですよ。『天使のたまご』とか『ダロス』は作品としてはエポックだったかもしれないけれど、メディアとの関わりという観点から言えば、最も大きな出来事は『パトレイバー』ですね。
あの作品はビデオアニメでは初めてのシリーズ作品で、2カ月に1回――つまり隔月で1年間に6本を必ず出すという前提で宣伝したのね。これがまず画期的なことだった。当時のビデオアニメ市場を考えれば、正直、誰も売上げなんか期待していなかったんだけれど、これがまたビックリするほど売れちゃった。全国100箇所くらいでキャンペーンをやったり、OVA作品としては異例な規模のプロモーションまでやったんですよ。現場のギャラは死ぬほど安かったけど、自分たちの作品を作っているって熱意があった。
でも、何より画期的だったのは、ビデオがそこまで売れたにも関わらず、TVをやろうとはしなかったということなんだよ。ビデオの次は、まず映画を作ろうって、実際に作っちゃった。そして、映画によってまた認知度が上がり、最後の最後にTV用のアニメを作った。つまり、従来のTV→映画→ビデオというパターンを覆して、ビデオ(パッケージ商品)の収益を柱にして、映画やTVが成立する図式ができたわけ。『パトレイバー』によって、現在のアニメビジネスの雛形をバンダイビジュアルがつくりあげたわけだよ。これは大きな変化だった。
同時に、『パトレイバー』の劇場版を作ることによって、僕自身も映画監督としてやっていこうという決心がついた。アニメ監督ではなく映画監督として、長編の劇映画の演出を仕事のベースにしていこうって。それだけでもなんとか食っていけるかな、という目算が着いたから。
――TVが主流のアニメ業界で映画だけでやっていくのは、最初は大変だったのでは?
そのとき神風の如く登場したのがLD(レーザーディスク)という新たなメディアだったんだよ。これがまた現場の意識を大きく変えた。LDってメディアは、高画質だとか保存性が高いということはあったにせよ、ソフトの大半は既存のソフトを出し直しただけで、何より高かったわけでしょ。ビデオのように録画もできないし、ソフトを見る以外は役にも立たない。ところがこれが売れちゃった。そこで、ソフトを一度作れば何度でも出し直して、儲けられるんだってことに現場も気づいたわけ。これは日本人特有のことかもしれないけれど、メディアのコンバートになぜだかついていく。
で、僕が映画監督としてやってこれた最大の理由は、実はここにあるんですよ。昔の作品がメディアのコンバートにあわせて出し直され、印税が入ったのね(笑)。おかげで仕事がない時期にそれで支えられた。僕はそういう意味で、メディアの革新=メディアのコンバートというものの最大限の恩恵を被った者の一人なんですよ。実際、僕が作った作品はすべてがビデオになり、レーザーになり、DVDになっているし、そのおかげで、ささやかながら、人並みに家を買って、犬と暮らすこともできてるんです。
――監督は常に、そういったメディアやマーケットの変化を意識して作品を作ってきたのですか?押井守というクリエイターは、どちらかといえばマーケットを意識せずに作品を作ってきた印象がありますが。
いや、むしろ僕はかなりマーケットを意識して作ってきた人間だよ。映画は映画としての見応えがなければ、アニメとして生き残ってもダメだとずっと思っていたし、『うる星やつら』であろうが『パトレイバー』であろうが、すべてをそういう意識で作ってきた。それは結果的に浸透したんじゃないかな。僕が変えたという意味ではなく、現場は常にいいものを作りたいと思っているわけだから。
たとえば『クレヨンしんちゃん』や『ドラえもん』の映画をいまだに子供向けのイベントだと思っているのは、その映画を見てない人だけでしょ。あれはもはやTVアニメのオマケじゃなく、1本の映画として非常に完成度の高い作品になっている。アニメでも映画は映画として成立するようになったわけだよ。
大切なのは、いいものを作りたいって作り手の欲求と、儲けたいという企業の欲求の出逢いがないとダメなんだってこと。そこに初めて“作家性”というものが必要になってくる。それを本当に確立したのは、やっぱり宮さん(宮崎駿監督)ですよ。最初はルパン三世の延長線上にある『カリオストロの城』から出発して、最終的にそれを確認したのが『風の谷のナウシカ』だった。
――監督が映像表現のメディアとして、映画にこだわる理由はどこにあるんですか?
実写であれ、アニメであれ、僕が一貫してやってきたことはひとつだけしかないわけで、言葉として言えば、異世界――架空の世界を作り出すということ。ここだけは変わっていない。ホームドラマを撮りたいとか、青春映画を撮りたいとか、そういうことを思ったことは一度もないから(笑)。架空の世界をお客さんに説得するための最大の武器は何なのかといえば、映像のクオリティになる。その映像のクオリティという点に関していえば、依然として35ミリのプリントにかなうものはない。
そのなかでさらにアニメという表現に関わりつづけている理由は、今はまだアニメのほうが限られた予算の中でやれることが多いから。とはいえ、映画という形で画を作り続けてきた一方で、僕はダイアログが持っている力というのをすごく信用しているんです。だから映画でなくても、ラジオドラマのような音声と音響による「画のない映画」もいずれ作りたいですね。
――自分が思い描いた街や世界を生み出すとなると、興味の方向性としてはアートの方向に近づいていくと思うのですが。ご自身の中で、アートとエンタテインメントのバランスをどのようにお考えですか?
たとえば今回の『イノセンス』という作品では、僕が本当に見たかった世界というものがようやく映像として実現できたんだけど、その結果として、美術が占める割合が70%を超えている。じゃあ、『イノセンス』の世界観や街だけを延々と作っていれば楽しいかといえば、やっぱり嫌になるんですよ。
僕の場合、世界を作りあげるのと同時に、自分が作りあげた異世界のなかで納得できる人間を描きたいという想いがある。だから、何か状況を作り出さなければならない。それが結果として物語となるわけです。
街を出現させるだけになれば、まさにアートという方向に行っちゃうわけで、そこには興味がないんです。もちろん、アニメであれ実写映画であれ、芸術的な側面は必ずある。綺麗なものが見たいとかそういう根元的な欲求なしに表現はありえないし、だから、結果的にある種の芸術性に接近することになる。でも、同一化する事は決してないし、あってはならない、と思っています。そういう意味で、僕はアーティストではなく、あくまでエンタテインメント監督なんです。
写真:岸 大介


