Vol.5 川本 喜八郎

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日本における人形アニメーションの黎明期から人形アニメ制作に携わり、国内外のクリエイターから敬慕されている川本喜八郎氏。文化庁メディア芸術祭アニメーション部門では2003年、2005年と二度の受賞を果たすなど、今なお人形アニメーションの第一線で走りつづけている。これまでの道のりから、最新作『死者の書』について話をうかがった。

[Interview1] 人形との出会い

——どのようなきっかけで映画業界に入られたのでしょうか?
僕は子どものころからディズニー映画などをよく見ていて、いわゆる映画少年だったんです。それでまず、1946年に東宝撮影所に美術セットをつくるデザイナーとして入りました。でもいわゆる東宝争議(*1)のころで、4年間在籍していましたが、そのうちの半分はストをやっていました。まだ日本がどこに向かうか決まってないような時代で、すごく熱気に満ちていましたね。
東宝撮影所では松山崇(*2)さんの助手をやっていたのですが、松山さんは雑誌「アサヒグラフ」(朝日新聞社)でもお仕事をされていて、これもお手伝いすることになりました。その当時の社会をワンカットの写真で風刺する「玉石集」という洒落たページで、これに使う人形をつくってほしいという依頼でした。これがはじめてプロとして人形をつくった仕事です。

——そこで飯澤匡(*3)さんに出会われるのですね?
そうです。ちょうど東宝争議が悪化して会社を解雇されてしまったときでした。そのころ飯澤先生は、同じ編集室の「婦人朝日」(朝日新聞社)で編集長をしておられたのですが、文学座の子ども向け公演の演出もやられておられました。飯澤先生は反骨精神の人で、認められるべくして認められていないというものに我慢ができないという性格なんです。たとえば漫画や喜劇などは、当時は社会的に価値が認められていなかったんですね。その中に人形というジャンルもあったのです。当時も人形をつかった絵本などがあったのですが、飯澤先生は「こんな汚いものをつくって!自分たちがやればずっとよいものができる」と思われていたようです。そこでわれわれがグループをつくって、土方重巳(*4)さんがデザインされて、僕が人形をつくるという形で人形絵本(*5)をつくりました。

——そのころの人形のデザインはどんな感じでしたか?
土方さんのデッサンは非常にしっかりしていましたが、僕のつくる人形は最初のころはとても叙情的だったんです。目はパッチリして、手足が長いしね。飯澤先生は、こういう叙情的な人形が大きらいで「こんなものではドラマはできない」と、認めてくれませんでした。それで、叙情人形の残滓(ざんし)を徐々になくしていくという訓練が、10年ほども続いたんです。いま考えると、すごくよい訓練でした。それがあったからこそ、『三国志』もできたし、人形アニメのドラマもつくれるようになれたんだと思います。

——人形アニメーションとのはじめての出会いはいつでしたか?
1951年くらいだったかな。『皇帝の鶯』(*6)が、僕らの見た最初の人形アニメだったと思います。

——飯澤さんは、そういった作品を知るアンテナを張っていらしたんですね。
そうなんです。飯澤先生はアサヒグラフに移動されていて、そこに輸入業者が誌面で紹介してほしいと売りこみに来たんですね。それで税関で試写をやってもらったのです。はじめはチェコの映画に興味はありませんでしたが、それはもう僕の人生にとって決定的な出来事でした。実は「人形の仕事はやめて、ほかの仕事にうつろう」と考えていたころなんですよ。つまり、人形に野心が沸いてこなかったんですね。それで飯澤先生にうちあけたんですが、「野心なんてものはね、やっているうちに沸いてくるものなんですよ」と、とりあってくれませんでした。それでも飯澤先生は演出家だから、「やる気を出させるために、よいモノを見せてやろう」と考えていらしたんだと思います。僕はその策略にまんまと乗っちゃったんですね(笑)。

——このころ(1953年)に持永只仁(*キーワード2参照)さんが帰国されたのですね?
飯澤先生はジャーナリストでもありましたから、「人形を動かす人が中国から引揚げてくるらしい」という情報をどこからか得たのでしょう。そこで、テスト的に実演してもらうことになり、持永さんが我々のスタジオに京劇のアニメーション用人形を持参されました。そして、持永さんの奥さんが動きの見本を演じられたのをみながら、タイムシートにコマ数をかきこみ、いきなりアニメートされたのです。人形が歩いてイスに座り、グラスにブドウ酒を注いで飲んで酔っぱらって、最後にフラッとなるという動作です。これにはビックリしましたねぇ。

——そのフィルムが今も残っていたら、すごい資料ですね。当時はまだ人形アニメーションという言葉はなかったころですよね?
人形映画とよんでいましたね。まだアニメーションという言葉も定着していませんでした。持永さんに人形アニメーションの基本を学んだのちにシバ・プロダクション(以下、シバプロ)(*7)という会社を設立したとき、アニメーターの募集を行なったのですが、電気関係の人が応募してきました。「なぜ電気?」と思ったら、アニメーターに“メーター”という言葉がついていたからだと(笑)。シバプロでは4年間CMをつくりましたが、朝から晩まで仕事づくめで酷い生活だったんですよ。次から次へと仕事は入ってくるし、人は育てないといけないし。何しろ映画のことを知っているのは僕ひとりだけでしたから、もうボロボロでした。

(*1)東宝争議
1946年(昭和21年)、東宝と従業員組合との全面対決からはじまったストライキのこと。昭和23年には、撮影所に立てこもった組合員に対しGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総本部)が介入し、武装した米軍が出動。戦車、装甲車、航空機までが砧撮影所をとり囲んだ。「こなかったのは軍艦だけ」という有名な言葉を残している。

(*2)松山 崇(まつやま たかし)
映画の美術デザイナーとして、黒澤明監督の『羅生門』(1950)、『生きる』(1952)、『七人の侍』(1954)、市川崑監督の『ビルマの竪琴』(1956)、『太平洋ひとりぼっち』(1963)などを担当。川本氏は、五所平之助監督の『今ひとたびの』(1947)で松山氏の助手を務めた。

(*3)飯澤 匡(いいざわ ただす)
劇作家、演出家、小説家。「婦人朝日」「アサヒグラフ」などの編集長を務め、「人形芸術プロダクション」を設立。文学座などの舞台や、人形絵本シリーズのほか、『ビールむかしむかし』(1956)などのPR映画、NHKのラジオドラマ、人形劇なども手がけた。

(*4)土方 重巳(ひじかた しげみ)
画家。川本氏と同様に東宝に勤務するものの、東宝争議で人員整理され、飯澤氏に見いだされる。そして飯澤、川本、そしてカメラマンの隅田雄二郎らと「人形芸術プロダクション」を結成し、人形絵本シリーズのデザインを担当した。『ブーフーウー』(1960〜1967)などNHK人形劇や、ミツワ石鹸の三人娘や、佐藤製薬のサトちゃんなどのキャラクターも土方氏のデザイン。

(*5)人形絵本
脚本を飯沢匡、デザインを土方重巳、そして人形制作を川本喜八郎、辻村ジュザブロー、与勇輝らが担当し、おもにアンデルセン、グリム、コロッディなどの童話や、マザーグースなどを題材にした写真絵本のシリーズ。「トッパンの人形絵本」「マイニチの人形絵本」、あるいは海外向けの「A LIVING STORY BOOK」などとして発売され、その種類は百数十種に達した。写真は海外版『JACK and the BEANSTALK』(じゃっくとまめのき)。

(*6)『皇帝の鶯』(Cisaruv slavik)
アンデルセンの原作をトルンカが翻案した1948年制作の人形アニメーション(一部実写)。上映時間1時間13分。カラー。

(*7)シバ・プロダクション
人形芸術プロダクションから発展するかたちで、飯沢、土方、川本らが1958年に設立したテレビCM制作会社。「アサヒビール」「ミツワ石鹸」などの人形アニメCMが有名だが、カットアウトなどの手法もつかっていた。最盛期は月12本もの作品を抱え、川本が演出、人形制作、アニメート、撮影、編集、録音などを兼任していた。川本は1962年に退社したが、1964年に帰国後、1年間だけ契約で働いている。

[Interview2] 30歳半ばで決心したチェコへの自費留学

——1963年にチェコ(当時はチェコスロバキア)に渡ったそうですが、そのときの話を聞かせてください。
夢中になって仕事をしていて、ハッと気がついてみたら、自分も30半ばを過ぎている。いま動かないと永久に海外で人形アニメーションを学ぶ機会を失ってしまう。でも自分が辞めると、人形をつくる人がいなくなる…。そう葛藤しているときに、たまたま人形をつくれる人が入社したんですよ。それで今後はその人に任せることにして、会社を辞める下地をつくったんです。

——チェコにはどうやってコンタクトを取られたのですか?
トルンカ(*キーワード3参照)に直接、英語で手紙を書いたんです。でも返事がなかなか来なくてね。やっと届いたのは半年後でした。それがもう感動的な手紙で「人形の芸術というものは、肌の色とか、宗教とか、国家とか、そういったものを分けるものではなくて、結びつけるものだ。だからあなたが来ることは、とても嬉しい。それに、留学生の制度を利用すれば、お金もかからないので受けてみては」という内容でした。でも僕は年をとりすぎていましたから、すでに留学生の資格がなくて、結局自費で行くことになりました。チェコに行くつもりで、少しずつお金は貯めていましたから。でも、トルンカからの連絡を待っているあいだ、いつでも出発できるようにシバプロを辞めて仕事もしてなかったので、お金はけっこう使っちゃってましたね(笑)。

——チェコに渡るのは難しくなかったのですか?
難しかったですね。1963年はまだ渡航制限があった時期ですから、特別な理由がないと海外に自由には行けませんでした。トルンカの手紙があったからチェコのビザはすぐとれたのですが、パスポートがとれない。それで、知りあいのつてで、平凡社の本の取材に行くというかたちで、やっとパスポートをもらいました。そうしていざ出発というときに、チェコのスタジオから手紙がきたのですが、「いまは、人形アニメの仕事が入っていないので、来るのはすこし待ったほうがいい」という内容だったのです。でも僕は待ちきれずに、「いや…やっぱり行きます!」と、まるで押しかけ女房みたいに行ってしまったわけです(笑)。

——現地ではホテル暮らしですか?
1カ月以上ホテルに泊まって、ひたすらトルンカからの連絡を待っていたんですが、宙ぶらりんのきもちで耐えきれなかったですね。そのころ書いていた日記には、「もうチェコなんか嫌だ!こんな暗くて、何もないところにいたくない!」と書いてあります(笑)。そしてもう諦めかけていたときに、国立短編映画社の責任者であるファルブルさんというすばらしい人にお会いできたんです。この人がまったく官僚的でなくて、それ以降はすべてとんとん拍子で、フリーパスでスタジオの見学ができたんですよ。また、スタジオの人たちがものすごく親切で、仲間として扱ってくれました。それはポヤル(*8)さんのスタジオに行っても同じでした。彼らの優しさがなければ、あの国にはいられなかったでしょうね。

——ご自身のフィルムはお見せしたのですか?
これまでつくったCMなどを見てもらいました。すると「動きはいいし、アイデアもおもしろいのに、どうしてこんなにアメリカ的なんだ?日本には文楽というすばらしい伝統があるのに」とみんなに言われるんです。そのときは「ちっともアメリカ的とは思わない。どうしてこんなことを言われなきゃいけないのか」という気もちでした。でも、トルンカに「人形には人形の世界があって、人間のミニチュアじゃないんだ」と言われて、いっぺんにわかりました。チェコという国には人形劇の伝統があり、それをアニメーションというメディアにうつしかえて継承しているという矜持(きょうじ)があるわけなんです。

——チェコ以外の国にも行かれたのですか?
東ヨーロッパのアニメーションを勉強したかったので、紹介状を書いてもらって、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、それからソ連のモスクワと中央アジアのスタジオを見てきました。そこでカチャーノフ(*9)さんに出会って、いちばん仲よくなりました。ボクサーみたいな身体つきなんですが、おおらかで神経は繊細なんですよ。たしか『Лягушонок ищет папу』(小さなカエルがパパを探す,1964)を撮っていて、このアニメートをノルシュテイン(*10)さんがやっていた頃です。

(*8)ブジェチスラフ・ポヤル(Bretislav Pojar)
トルンカ作品のトップアニメーターとして活躍し、『真夏の夜の夢』(1959)を最後に独立。数多くのアニメーション作品を監督した。人形だけでなく、半立体、カットアウトなどさまざまな手法を使いわけ、カナダNFBとの共同制作も行なう。

(*9)ロマン・カチャーノフ(Roman Kachanov)
ソビエトのソユーズムリトフィルムで人形アニメーションを手がける。代表作に『ミトン』(1967)、『レター』(1970)、『ママ』(1972)、そして日本でも繰りかえし上映されている『チェブラーシカ』シリーズ(1969/71/74/83)などがある。

(*10)ユーリ・ノルシュテイン(Yuriy Norshteyn)
ロシアのアニメーション作家。セルにキズをつけて表から着色。それを細かく分解して組みあわせるという手法でアニメートを行なっている。代表作に『霧につつまれたハリネズミ』(1975)、『話の話』(1979)など。川本プロデュースの『連句アニメーション 冬の日』(2003)に参加したほか、『死者の書』でも1シーンのアニメートを担当している。

[Interview3] 初の自主制作作品『花折り』

1964年に帰国して、日本の伝統文化を見直してみると、そこには世界中どこにもない宝の山があったんです。それで、猛烈に文楽を勉強しました。公演があるときはかならず行き、頭(かしら)や、動きを見て、「トルンカが言っていたことはすべて日本の先人がやっていたんだ」とおどろきました。

——そしていよいよ最初の自主制作作品『花折り』を、おつくりになられるのですね。
いや、まずその前に、お金がなかったですからね(笑)。じつはプラハにいたときに、シルクロードを題材とした2時間ほどのシナリオを書いていたんですが、それをトルンカに見せたら、「ユネスコに売りこんでみなさい」ということになり、パリのユネスコ本部までひとりで行きました。まだ自分の作品を1本もつくっていないのにですよ。そこで彼らは「よい題材だけど、2分間になりませんか?」なんて言うんです(笑)。
でも、そのユネスコの人が、日本に仕事で訪れたときに、NHKに僕の脚本を紹介したようで、それがきっかけで、NHKでレギュラーの人形劇の仕事ができるようになりました。それで生活資金を得つつ、自主制作のためのお金もすこしずつ貯め、ようやく『花折り』をつくったんです。

『花折り』©川本プロダクション

『花折り』©川本プロダクション

——これは非常に日本的な題材でしたね。
これは壬生狂言(*11)を元にしていますが、その通りにやってもアニメーションとしてはおもしろくないだろうと、試行錯誤のくり返しでしたね。トルンカは、『花折り』だけ見てくださっているのですが、「演出がヘタです。あの場面は引きの絵だけで処理するんじゃなく、カットを割ってアップをいれなさい」といった、細かい指示までしてくださいました。それはすごくありがたかったですね。

——『花折り』『道成寺』『火宅』などには、大和絵風の背景のなかに人形たちが立っている、不思議な遠近感を感じる映像が見られますが、どうやって撮影されたのですか?
セットを水平に組んで上から撮影しています。人形に隠れるように鉛のブロックを置き、そこに棒を刺して人形を寝かせて取りつけたんです。問題は背景に人形の影が出ること。人形の両側から、拡散させたライトを当てると影は消えますが、それだけだと力のない画面になっちゃう。それで、もう1灯スポットライトを当てて、そこだけに影をつけるんですよ。ポヤルさんがよくつかっていた手法です。

——カットアウト(切り紙)と人形アニメの作品を手がけられていますが、手法を使いわける理由はなんでしょうか?
僕がもっとも悩むのは、このアイデアは何で表現したらいちばんよいかということです。人形なのか、絵なのか、CGなのか…、それを見極めることがもっとも重要です。トルンカにも「これは人形じゃなきゃ描けないか、それを最初にかんがえます。人形アニメをやって失敗し、絶望する人がいますが、それは人形のせいではなく、見極めができなかった作家のせいです」と教えられました。

——題材にもっとも適した手法を選ぶということですね。
そうです。僕は、日本の人形の表現というものをどこに求めるかが、一番の問題だとかんがえます。そして「我々の先祖が人形から何を得ようとしていたのか」を文楽のなかに探っていき、それが“執心”というものに繋がっていったんです。これは日本の演劇の根幹なんですよ。たとえば夢幻能(*12)では、かならず僧なり旅人が化身に遭う。化身は死者で、その想いを演劇として表現するというものです。文楽でも一番重要なのは“口説き”というもので、女性の主人公が思いのたけを綿々と浄瑠璃に乗せて語るところがあります。僕はあるとき、これこそ人形の表現だと分かったんです。“執心”、つまり人生の“苦”こそ、人形の表現だと。

——先生の作品には「何も悪くない人が苦しむ」といった不条理なテーマが多いですが、これは文楽からの影響ですか?
いや、むしろ能に近いです。仏教の“業”にも似ていますよね。『旅』をつくったとき、鈴木大拙(*13)さんの『禅の研究』などに影響をうけ、人生の苦を表現してみたいと思うようになったんです。『旅』は僕の唯一のオリジナルストーリーですが、主人公の少女がさまざまな苦を体験して、“悟りの境地”に達するという表現は、『死者の書』までずっと引きずってきたという気がします。

(*11)壬生狂言(みぶきょうげん)
毎年節分と4月、10月に京都市中京区の壬生寺で、壬生大念仏講中の人々によって演じられる狂言。仮面をつけた演者が、鉦、太鼓、笛の囃子に合わせて無言で演じ、演目には平家物語や、御伽草子を元にした話など約30種類ある。

(*12)夢幻能(むげんのう)
能の曲趣のひとつ。シテ(主人公)が現実世界の人物であるものを“現在能”と呼ぶのに対して、神、鬼、亡霊など現実世界を超えた存在がシテとなるものを“夢幻能”とよぶ。

(*13)鈴木 大拙(すずき だいせつ)
仏教学者。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめたことで有名。100冊ある著書のうち、23冊が英語で書かれている。

[Interview4] 「なんでこんなにわかんないんだろう」と思った『死者の書』

©桜映画社・川本プロダクション

©桜映画社・川本プロダクション

——その『死者の書』を題材として選ばれたのはなぜでしょうか?
1976年に『道成寺』をつくったときに、音楽の松村禎三(*14)先生が折口信夫(*15)全集を僕に渡してくださったんです。読んでみたら驚くほど強い印象で、きれぎれの鮮烈なイメージが頭のなかに浮かんできました。でも話は理解できない。「なんでこんなにわかんないんだろう」と思いながら、ずっと頭のなかに沈殿していたんです。1989年には絵コンテができていたので、約30年来の企画なんですよ。

——『死者の書』における表現のポイントはどこでしょうか?
“悟りの境地”と“執心”というふたつの要素です。特に、人形表現の究極としての“悟りの境地”ですね。これは人間の役者ではできないだと思います。もちろん釈迦やキリストを演じた役者もいますが、なんか生臭くなるでしょう?もともと、神をよびだすのに汚れた人間では具合が悪いので人形を使ったというのが、日本の人形芝居のはじまりなんです。じつは、中世ヨーロッパでも人間の役者が神を演じることは禁じられていましたから、人形で神のイメージを観客に伝えたんです。同様に、日本でも人形と神は切りはなせないんです。

——もっとも悩まれたところは何でしたか?
『死者の書』というのは、本当に何度読んでもよくわからないんですよ。読みかえすと、また違う解釈ができたりね。たとえば、主人公の郎女(いらつめ)が、「なも 阿弥陀ほとけ。あなたふと 阿弥陀ほとけ」と何回か唱えるんですが、大津皇子の亡霊はこの言葉が嫌なのかもしれないと、最後までわからなかったんですよ。それを言われると「護符みたいに大津皇子が去っていかねばならないのかな?」と思って。
そして、一番悩んだのが、どこで郎女は悟りの境地に達したのか、ですね。最初は、大津皇子が二上山から降りてきて、辺りが輝くように明るくなって「笑みを含んだ顔が、はじめてまともに郎女に向けられた。軽くつぐんだ脣は、この女性に向うて物を告げてでも居るやうにほぐれて見えた」となるところで解脱すると思っていたんです。でも、郎女が「なも 阿弥陀ほとけ」と言うと、大津皇子はまた去って行っちゃうんですよ。だからあとで「悟るのはそこじゃないんだ」とわかった。それで最後に郎女が曼陀羅を描きはじめる直前に、大津皇子が来迎印という印を結ぶんだけど、そこでもって解脱したと解釈したんです。

——製作にあたって、スタッフとスタジオの確保も難しかったと思いますが。
これは桜映画社のプロデューサーである福間順子さんがうまくやってくれたんですが、いくつもの幸運が重ならないと、このような作品はできないと思いますね。まず美術デザイナーですが、中学の同級生でもあった村木与四郎(*16)に依頼に行ったんです。そうしたら「いまは継続的に映画をつくっていくことができず、大道具の組織自体がなくなってしまった」と断られたんですよ。それではたと困ったんですが、いまこういう組織があるところはどこだろうと考えたら、テレビの世界なんですね。そこで、NHKの山下恒彦(*17)さんに相談したら、すばらしいアレンジをしてくださいました。幸いなことに、山下さんは多摩美術大学にもかけあってくれて、僕が講義をやるかわりにスタジオを貸してくれる、ということになったんです。さらに、「手つだわせてください。」と手をあげてくれた、若いスタッフが6人ほどいたんですよ。いちばんよいスタッフ構成というのは、さまざまな年代の人がいるということなんです。年よりだけとか、若い人だけでは、あまりよい作品はできませんよ。

(*14)松村 禎三(まつむら ていぞう)
作曲家。代表作に遠藤周作の小説にもとづくオペラ『沈黙』(1993)がある。映画音楽も数多く手がけており、熊井啓監督や黒木和雄監督作品が多い。

(*15)折口 信夫(おりくち しのぶ)
民俗学者、国文学者。国文学の起源を祝詞や呪言に求め、日本人の神観念をマレビト信仰にもとづくものとし、独特の『折口学』といわれる研究として発表する。

(*16)村木 与四郎(むらき よしろう)
川本氏と同じく松山崇の助手を務め、1954年から美術監督になる。『生きものの記録』(1955)以降の黒澤明監督全作品の美術監督を担当したことで有名。『日本沈没』(1973)や『ノストラダムスの大予言』(1975)といった特撮大作にも関わる。

(*17)山下 恒彦(やました つねひこ)
NHKデザインセンター映像デザイン・チーフデザイナー。多摩美術大学非常勤講師。川本氏が人形を担当されたNHKの人形劇『三国志』(1982〜1984)『平家物語』(1993〜1995)などで美術を手がけていた。『死者の書』では川本喜八郎新作アニメーション製作実行委員会副会長を務めた。

[Interview5] 人形アニメーターを目指す人へのメッセージ

一番言いたいのは、やはり日本の伝統、特に能を勉強しなさいということですね。芯がしっかりしていて、日本の演劇の根幹だと思います。それを見ておけば、日本的な発想が自信を持ってできるようになります。『死者の書』をチェコで上映したとき、ポヤルさんは「どうして大伴家持のような重要な役が、郎女ともっと絡まないのか?」と聞いてきました。西洋の演劇における主人公と脇役は、最初から最後まで密接に絡んでいますね。それに対して能のワキとシテは非常に淡い絡みなんです。つまり、西洋と日本のドラマツルギーの違いを知ることが大切なんです。

——日本独特の表現を身につけるということですね。
そうです。日本の若い作家、たとえば山村浩二さんの作品も、余白があったり、スパっと抜けている部分があったり、構成のしかたが西欧と違いますよね。でもそれを海外がちゃんと認めた。つまりクリエイターは、その国の文化の伝統を持っていないといけないということです。

——昨年(2007年)飯田市に川本さんの美術館ができたそうですね。
ええ、川本喜八郎人形美術館という美術館です。ぜひいちど訪れてみてください。人形の持っている不思議なパワーが感じられると思いますよ。人形は、神と人間を結ぶ特別なものなのです。

取材・文:大口 孝之
写真:田附 愛美

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