わずか19歳で日本初の長編アニメーション『白蛇伝』に参加。手塚治虫との出会いとテレビアニメ『鉄腕アトム』の誕生。10年におよぶ放浪の旅。そして傑作『銀河鉄道の夜』の誕生。日本のアニメ史とともに歩みつづけるアニメーション監督、杉井ギサブロー氏に、アニメの過去と現在、そしてテレビアニメ以降のアニメの可能性についてうかがった。
——杉井さんは1958年からアニメーションの世界に入られていますね。
僕は11歳のころからすでにアニメーションの世界を志していたんです。それはディズニー映画の『バンビ』との出合いでした。当時『白雪姫』や、『ピノキオ』などのディズニー作品が人気だったのですが、僕はロシアアニメーションの『せむしの仔馬』やフライシャースタジオの『バッタ君町へ行く』の方が好きで。ディズニーはよくできているんだけど、優等生的なところがなんとなく馴染めなかった。ところが、『バンビ』には最初の森のシーンから魅了されてしまったんです。
——19歳で東映動画に入社されたんですよね。
『バンビ』に感動して「僕がいく世界はここだ!」と思って、何が何でもアニメーションをやろうと決心してたんです。そんな時に、東映の社長だった大川(博)さんがウォルト・ディズニーのようなアニメーション映画の市場を日本でも確立しようと、本格的なアニメーションスタジオ(東映動画)を設立して、日本最初のカラー長編アニメーション映画の『白蛇伝』の制作を始められたんです。僕はその東映動画の入社試験を受けて入ったんですけれど、もし試験に落ちていても社長さんの家の前に座り込んで入れてもらうつもりでした。結局、無事にアニメーターとして入社できましたが(笑)。
——東映動画から虫プロに移った経緯はどんなものだったんですか?
東映動画は“東映本社の企画を制作するスタジオ”ということで、現場の人たちが企画を提案したり、交渉できる場がなかったという不満がありました。当時、組合運動のゴタゴタもあったし。
僕は「この会社では自分がおもしろいと思えるような作品はつくれないな」と思ったし、「アニメーションはイヤイヤやる仕事じゃないだろ」と。それでスッパリとやめてしまったんです。
そうこうしていたら、月岡貞夫くんという友人が「手塚先生がアニメーションをやるから行け」って言いにきてくれたんですよ。それで「手塚先生が?」って。
——それまで手塚治虫氏とは面識がなかったんですか?
東映動画の映画『西遊記』の原作は手塚先生だったから、先生がスタジオに来てストーリーボードを描いたりしていた姿は見ていました。月岡くんに紹介されて手塚先生の自宅を訪ねたら「やぁ、ギッちゃん待ってました!」なんて歓迎してもらえて。それが初顔合わせです。
そのころはまだ“虫プロ”という名前もなくて、手塚先生の自宅の車庫の2階で、5人くらいのスタッフが『ある街角の物語』という自主制作的なアニメーションをつくっていたんです。もし手塚先生がその後もアート系の作品をつくっていたら、僕は虫プロには入っていなかったでしょうね。というのは、あくまで僕はディズニーのようなエンターテインメントとしてのスタジオ制作のアニメーションを目指していて、個人作家の自主映画のような作品づくりにはあまり興味がなかったですから。
映画というのは文学と美術、音楽、演劇、写真、そういうものがすべて集まっためずらしい芸術なんですよ。大勢の芸術家たちが共同でものをつくっていく、芸術分野を総合させた表現。個人的な作品よりは大勢の芸術家が関わってひとつの作品をつくるという仕事のあり方が僕の理想なんです。
そう思っていたところに『鉄腕アトム』をアニメーション化しようという話が起こったんですよ。ある日、虫プロの坂本(雄作)さんと昼休みにおしゃべりをしていたら、彼が「ギッちゃん、僕ら、なんかお金になるような仕事をやらにゃマズいと思うんだよ」って言うんですよ。「マンガ部のみんなが、”アニメ部のやつらは俺らが食わせてるようなもんだ”って言ってるらしいんだよ」って(笑)。僕らアニメ部は昼過ぎにきて、おやつまで食ってのんびりやっている。毎日徹夜して家にも帰らずに働いているマンガ部にしてみたら、冗談じゃないですよね。それですぐに手塚先生に『アトム』をやりましょうって掛けあったんですよ。
——アトムのアニメ化は手塚治虫氏発案ではなかったんですね。
違うんです。だけど、手塚先生も似たようなことを考えていたらしく、すぐにオッケーが出ました。庭の一角にスタジオをたてることが決まって「じゃあ名前をどうしよう?」って話になった。先生もみんなもいくつか意見を出したんですが、手塚先生は自分のスタジオなのに冗談みたいな案ばかり出してました。“虫プロ”という名前もスタッフが考えたんです。
虫プロがはじまって終わるまで、手塚先生は若者の僕らを作家として対等に扱ってくれました。たとえばこれは僕が不思議でならなかったんですけれど、アトムの各話をそれぞれ順番に演出家がつくっていくんですが、毎回画のタッチが違うんですよ。けれど先生は「これは僕のアトムと違う」とは一度も言わないんです。僕らを作家として尊重してかなり自由につくらせてくれました。だから虫プロからは、りんたろうだとか富野由悠季、安彦良和くんだとか、大勢の作家が育ったんだと思いますよ。
いま考えると手塚先生はそのころ30代後半。虫プロは30代の若者が、20代の若者を集めてつくった作家集団だったんですね。だから自由な空気が流れていた。それだから、経営的には失敗したのかもしれないけど。

僕は“アニメーション”と“アニメ”っていう言葉を分けて考えているんですよ。日本のアニメーションは大正時代からつくられてますが、“アニメ”のスタートは『鉄腕アトム』からなんです。アニメーションをアニメという省略語で呼んだのは手塚先生が初めだと思います。
アトムの製作が決まったとき、僕はまさかアトムがあんなに動かないアニメになるとは思わなかった。テレビシリーズの最初の3本はモデルをつくるということで手塚先生自身が監督されたのですが、演技するアトムの体が全然動いていない。口と目だけが動く、いわゆる手塚流リミテッドアニメーション(動きを簡略化し、作画枚数を節約したアニメーション)だったんです。僕が不満を言うと手塚先生は「いや、ギッちゃん、これはアニメーションではないんですよ。テレビアニメなんです」っていうもんだから、その当時は正直「そんなのは動かないアニメをつくっている言い訳じゃないか」と思った。でも、おそらくあのころ、手塚先生には、従来のアニメーションとは違ったアニメという構想が明確にあったのだと思うんですよ。
僕は「こんな“止め止めマンガ”のアニメでおもしろいものができるはずがない」と思っていたので、アトムの完成試写はショックでした。なぜなら、すごくおもしろかったから。当時は、20〜30分のアニメーションのために平均30000枚くらいの動画を書くのが常識でしたが、アトムの場合は、1話につき4000枚くらいの作画だったと思います。
「アニメーションの動きではなく、物語性のおもしろさでみせるんですよ」と手塚先生に言われました。これがテレビアニメのスタートです。

——あと有名な逸話としては手塚治虫がテレビアニメをすごく安価でテレビ局に売ってしまったということですよね。
東映動画ではアニメーションの制作には10分つくるのに1000万円ぐらいかかるといわれていました。しかし、手塚先生は20数分のアニメを100万で売ってしまったんです。実際は、いくらリミテッドでもアトム1話につき200万くらいはかかっていたはずです。しかし、100万で売ってしまった。それにはちゃんとした先生なりの理由があって「日本のテレビ局は『バッグスバニー』だとか『ポパイ』っていう、アメリカの使い古したフィルムを60万ぐらいで買っている。それに対して1000万ですと言って売り込んでも売れるわけがない。だから限りなく60万に近く、せめて100万で」と聞かされました。
手塚治虫が最初にテレビアニメを安く売ってしまったから、40年たったいまでもアニメの値段が安いんだという批判はあります。けれど、すぐに『鉄人28号』がアニメ化されたり、次々とアニメに参入するスタジオが出来て、あっという間に産業化された。テレビ局にとって、視聴率がとれるし安いというのが土台にあったからなんですよ。もしあのときに手塚先生が「アトム」でアニメーションをリミテッド化するアイデアを考案しなかったら、いまの日本のアニメ界はないと思います。
それにもしテレビ局が潤沢な予算を出していたら、色々な制約が生まれてきますよね。そうしたら、いまのような作品の幅広さは生まれなかったでしょうね。子ども向けのものから、大人のアニメまで、これほど多様性があるアニメーションは日本のアニメだけですから。
——『哀しみのベラドンナ』を最後に虫プロを去って、『日本昔ばなし』の立ち上げに参加したあと、なんと10年も放浪の旅にでていますね。これはどういう時間だったのですか?
モノをつくるという作業では、自分のなかのものを出すのが“日常”だと思うんですよ。そうした日常が習慣になると、自分のなかへなにかを供給しないと、新しいものが産み出せなくなる。僕は19歳でこの世界に入ってからずーっと出しつづけてきちゃった。そしてあるときふと、このままいくとモノをつくる力が枯渇しちゃうんじゃないかって感じたんです。そこで、35歳のときに旅に出ました
昔から歌人などが旅にでるのは、栄養補給をしているんだと思うんですよ。そうした日常から離れて旅をしていると、いかに多くのものが日常のなかに潜んでいるかということが見えてくるんです。
旅に出たのには実はきっかけがあって、映画『ジャックと豆の木』を監督して『日本昔ばなし』をセッティングしたあと、僕は『平家物語』をアニメ化したかったんです。それで平家絵巻をベースにしたプレゼンテーションをしたんです。そしてプレゼンの帰りに「平家物語を描くときに絵巻で表現するなんて、だれでも思いつくようなことなんじゃないか?」って、古典やるのに絵巻しかイメージが浮かばなかった自分にショックを受けたんです。
僕は戦後世代ですから、子どものころから読んでいる本はほぼ翻訳もの。アラビアンナイトや三銃士から巌窟王などみんな海外のお話しで、日本の物語から遠いところで育ってきたんだなっていうことが気になった。日本人の作家でありながら、日本に5000もの民話があるのを知らなかった。だから日本各地を転々と放浪しつづけて10年経って、ようやく日本の作家として作品を語れるようになったと思いました。

——あだち充の『ナイン』でアニメの世界に復帰して、いよいよ『銀河鉄道の夜』を監督されたのですよね。
『銀河鉄道の夜』は旅があったからこそできたんだと思います。その経験が、映像表現の振り幅を大きくすることにつながった。
この作品は映画言語へのチャレンジだったんです。現在のエンターテインメント映画は、“わかるという軸”で成立してる。“わかる”っていうのは抽象性などの“わからない要素”を排除すること。僕はこの映画を感じるという領域に向けて発信したかったんです。だからこの映画は明快な解説をしていない。半分はその人の解釈、観た人がそれぞれ独自の理解で自分のものにしてくれるように、観た人が映画との間に入り込める隙間があるつくり方をしたかったんです。
ハリウッド映画のように明快で、客席に座っていればすべて伝わるっていう観せ方もあるけれど、そういう映画は心に残らないと思うんですよ。だけど、観客が自分の創造思考も投影して完成させることができるような映画は、観た人のなかで生きつづけていく。映画は、いずれは立体映像になったり、臭いを発したり、観客が体感できるものになっていく傾向にあるけれど、それは映画というより、もはや映像遊園地であって映画本来のあり方ではないと思いますね。
——インターネットの登場以降、テレビがアニメの中心的な媒体から外れつつあるのですが、アニメの今後はどうなっていくと思いますか?
いままでのアニメはテレビが90%のメディアなんですよ。これからは若い世代の人たちが新しい市場を広げていく時代。
僕は、個人的にはこれから“劇場”という場所が復活すると思っています。パソコンのなかのアニメと、テレビで見るアニメ、映画館で観るアニメ、ぜんぶ伝達される言語が違うんですよね。テレビは生活空間の延長にあるもの、パソコンは個人的で自分が参加できる媒体、携帯も同じ。それらを含め、伝達する場によって情報の質がぜんぶ違う。
たとえば、映画をどの媒体で観るかによって、脳に送られる情報の質がまったく変わってくる。テレビってインターネットと映画の間に位置する中途半端なメディアだと思うんです。テレビ自体が、家具でもあり、日常に持ち込まれた道具ですからね。いっぽうで、コンピュータは情報の早さはあるけれど、情報の深さが伝えられない。映画という情報の質は劇場という空間がいちばん適していると思うんです。若者たちはテレビから離れることで劇場空間を求めるようになる気がします。
——確かにアニメの映画は他の映画に比べて上映館数も少ないせいか、平日でも込み合ってますし、ファン層も本当に熱心な感じがしますね。
人間というのは情報が簡略化され、そのスピードが早くなってきたら、それに反するように自分の体のなかにある動物的な生理でリズムを調整しようとする。それは自己防衛反応だし、生理的なものだと思うんです。僕自身は、世界はもうコントロールの時代がきていると考えています。このまま情報や生産が加速してゆくだけでは人類の文化は崩壊してしまうかもしれません。
僕はリニアモーターカーのような発想には反対なんです。今後は、時速500キロで走れるのに走らない。1日で届けられるけれど4日かかったってかまわない宅急便というように、どこかで折り合いをつけて、程よいスピード感で生活するという調整が必要な時代がきているのではないかと思うんです。
若者が「クルマなんていらないよ」っていうのは動物的な拒否反応かも知れないですよ。つまり、あまりにめまぐるしい社会に対する人間の本能的な拒否反応ですよ。
——次回作として宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』を用意されていますね。
これは僕のなかで賢治3部作の2作目としてつくっている作品です。生命の在りようがテーマの物語になります。2010年完成予定ですのでぜひご覧ください。
取材・文:古屋 蔵人
写真:岡本 隆史
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1940年、静岡県出身。アニメーション監督。19歳でアニメーションの世界に飛び込み、日本初の長編アニメーション映画『白蛇伝』にアニメーターとして関わる。虫プロで『鉄腕アトム』などを監督、『日本昔ばなし』シリーズを立ち上げたと同時に日本各地を放浪し、10年あまりのブランクを経て『ナイン』『タッチ』といったあだち充作品で復帰。1985年の『銀河鉄道の夜』で絶対的な評価を得る。現在、同じく宮沢賢治作品の『グスコーブドリの伝記』を製作中。
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