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堀井 雄二

インタビュー

堀井 雄二 (ほりい ゆうじ)

1954年兵庫県淡路島生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。フリーライターとして活躍中にゲームデザイナーの道を歩み始める。アクションゲームが主流であった時代に『ポートピア連続殺人事件』(1983年)などの独特なゲームを手がけて成功を収めた後、ロールプレイングゲーム『ドラゴンクエスト』シリーズを世に送り出し、日本のテレビゲームの礎(いしずえ)を築くとともに、ゲーム業界に多大な影響を与えている。

1986年に誕生した『ドラゴンクエスト』は、90年代には子どもから大人まで爆発的な人気を呼び、社会現象を巻き起こした。日本を代表するロールプレイングゲーム(RPG)としてその名をとどろかせた『ドラゴンクエスト』シリーズは、現在も進化し続けながらロングセラーの地位を保っている。そんな『ドラゴンクエスト』の生みの親であり、長年にわたってゲーム業界で活躍しているゲームデザイナーの堀井氏に、表現の場としてテレビゲームの制作に携わることになったきっかけやゲームというメディアの今後についてなど、いろいろと話をうかがった。

[Interview1] 取材のついでにゲームコンテストに応募

――まず、ゲームデザイナーになった経緯を教えてください。

僕は学生時代からフリーのライターとして、セブンティーンや少年ジャンプといった雑誌に記事を書いていました。それで27歳のときに、お正月の新聞の記事でマイコン特集っていうのを見かけたんですね。その記事を見ると、マイコンはいろいろなことができると書いてある。あのハーレクインロマンスも、じつはプロットをマイコンでつくっている、なんて書いてあって、僕はコンピュータのことはそれまで全然知らなかったし、キーボードすら打ったことがなかったんですが、仕事に使えるかもしれないと思って購入したんです。結局、仕事に使うことはなかったんですが、それをきっかけにベーシックなどのプログラミング言語を覚えて、半年くらいかけて簡単なテニスゲームをつくったりしていました。

そうやって僕がパソコンにはまっていた頃、少年ジャンプのグラビアでゲーム特集を組んだんですよ。その特集の評判がとてもよかったので、当時のエニックスがゲームのプログラムコンテストを行なうから、次はそれを取材してくれないかという依頼がきたんです。「ゲームの特集だったら、堀井くんに取材させたらいいだろう」ということで、ジャンプ編集部の担当者から資料を渡されたんですが、その中にコンテストの応募用紙も入ってたんですね。だったら、自分がつくったゲームも応募してみようかな、という軽い気持ちでついでに応募したんです。そして「コンテストの発表会をやるので取材にきてください」と言われて取材に行ってみたら、入賞作品のなかに自分の作品があった。担当の人に「そのゲーム、僕がつくったんです」と言ったら、「ええー!?」って驚かれて(笑)。ドラマのような展開でしたね。

そういったプログラムコンテストのようなものは、当時ではめずらしかったんですね。だからマイコンのゲーム業界で話題になって、エニックスが入賞作品を市販化したわけです。記録メディアはまだテープでした。それらのゲームがかなり売れたので、十数人の入賞者に対して、次も市販化するので何かつくってくださいという依頼がきたんです。

[Interview2] アドベンチャーゲームの制作へ

――次に制作したゲームはどんなゲームだったのですか?

その頃、海外にはアドベンチャーゲームというものがあるという小さな記事を読みまして。言葉を入力して受け答えしていくことで、話が進むゲームだと書いてあったんですよ。そういうものならつくれそうだなと思ってはいたんですけど、アクションゲームと違って、自分でつくって自分で遊ぶというのは意味がないじゃないですか。そこへエニックスから制作依頼があったので、これはいい機会だと思ってつくったのが、マイコン用の『ポートピア連続殺人事件』なんですよ。

――ご自分でアドベンチャーゲームというものをプレイする前に、アドベンチャーゲームをつくってしまったんですね。

そうです。当時マンガ家志望だったので絵やストーリーはもちろんのこと、プログラムも全部自分1人でつくりました。当時のマイコン・ゲームの作者はみんな1人でしたね。本来、僕はマニュアルを読まない人間なんですが、こうやるにはどうしたらいいんだろうって、わからなくなると一所懸命調べたりしてね。ゲームをつくっている間は本当に楽しかったですね。

物書きだったせいか、文章がおもしろいということで『ポートピア連続殺人事件』が話題になって、できたばかりのパソコン雑誌『ログイン』が取材に来たんです。それをきっかけに、別のアドベンチャーゲーム『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』を制作することになって、雑誌の企画としてその取材旅行に行ったりしましたね。ゲームを作るのにロケハンするなんて聞いたことないから、おもしろいからやろう!って。じつは編集者がカニを食べたかっただけじゃないかっていう話もありましたけど(笑)。そのあと、ファミコンのブームがきて、ファミコンでも何かつくろうという話が出たときに、プログラムコンテストの入賞者だった中村光一さんが、「ポートピアならファミコンでできますよ」と言ってくれて、いっしょにファミコン版の『ポートピア連続殺人事件』をつくりました。このときの制作期間は半年ぐらいですね。『ポートピア〜』をきっかけに、だんだんとゲームデザイナーの道を歩み始めたわけです。ただ、まだ当時はライターの仕事もしていたので、『ドラクエIII』あたりまでは、「ゲームは道楽です」なんて言っていました。

僕はもともとマンガ家志望だったので紙というメディアを使って表現しようと思っていたけれど、パソコンのインタラクティブ性に惹かれて表現する手段を紙からコンピュータというメディアに変えていったという感覚ですね。

[Interview3] ファミコン・ブーム到来、そしてドラゴンクエストの誕生

――1985年頃にファミコンがブームになって、『ドラゴンクエスト』が登場するわけですが、当時の状況はどのような感じでしたか?

『少年ジャンプ』のグラビア特集でファミコンのゲーム特集をやったらすごい反響だったんですよ。読者アンケートで、グラビア記事がマンガを抜いて上位に入った。それだけ子どもたちのファミコンに対する興味が深かったんですね。

『ドラクエ』の第1作目は、ものすごい早さで制作しました。鳥山明さんや、プロデューサを入れてスタッフは5人で、期間はだいたい5ヵ月くらいでした。ファミコンのカセットの容量も64キロバイトしかなくて、いわば今の携帯電話の待受画像1枚分の容量の中に、絵とプログラムを入れないといけないわけで、シナリオもそんなに量がなかったんですね。あいかわらず僕は『少年ジャンプ』のライターも続けていたので、「ロールプレイングっていうおもしろいゲームが出るよ!」という記事を書きつつ、自分でゲームをつくっていました。「ロールプレイングってこんなゲームだ」と読者に説明しておくことで、実際にゲームが発売される頃にはみんな「RPGとは何か」ということがわかっているという展開にしたんですよ。

――子どもたちの反響はどうでしたか? 難しそうと言われませんでしたか?

「戦って強くなっていくんだよ」「文字でやりとりしながら物語を体験するゲームだよ」と言うと、じつは子どものほうが興味をもつし、たとえ難しかったとしても、それを「おもしろい」と言ってくれましたね。『ドラクエ』を出すまではアクションゲームが主流だったので、どうなるのかなあという気持ちはありました。そのために、とっつきやすくなるような工夫はいっぱいしましたけどね。まずゲームの最初は、王様の部屋にとじこめられていて、とりあえずコマンドをいろいろ入れないと出られない。でも部屋を出たときには、宝箱をあけて、人と話して、ドアを開けて、階段を降りるといった、ゲームに必要なコマンドをだいたい覚えられるようにしたんです。戦闘になれば、相手が襲ってくるので「たたかう」を押していればいい。そうすれば経験値があがって、レベルアップして、どんどん強くなっていく。早い段階ですぐレベルアップするようにして、強くなることが気持ちいいっていう感覚を味わってもらいたかった。それがユーザーにきちんと伝わったようで、最初の『ドラクエ』が100万本ちょっと売れて、『ドラクエII』が200万本、『ドラクエIII』で大フィーバー。発売日に大行列ができました。

[Interview4] 『ドラゴンクエストIII』まではプレッシャーはなかった

――『ドラゴンクエストIII』が社会現象にまでなって、制作する際にプレッシャーは感じませんでしたか?

『ドラクエIII』までは感じなかったですね。なぜなら、第1作をつくるときは本当にやりたかったことをいろいろ切り捨てたんですよ。なにしろ64キロバイトしかないので、やりたいことがすべてできたわけではないんです。パーティーも1人しかできない。アイテムは15種類しかない。モンスターもこれしか出せない。こうした制約のなかでおもしろいエッセンスだけを抽出して制作したので、逆にファミコンがどんどん進化して容量が増えるにしたがって、入れたかった要素を足していったんです。だからつくっていて楽しかったですね。

2作目をつくるときも、前作を遊んでいない人がいきなり2人のパーティーでプレイするのはつらいだろうと思って、まずは1人から始まるシナリオにした。ゲームの中で、2人目や3人目の仲間を探していくんですけど、なかなか見つからない。ようやく出会ったときに「いやー、探しましたよ」って相手から言ってきて、プレイした人は誰もが「探したのはこっちだよ!」と思ったりしてね。そういうウケねらいのセリフを書いたりしてました(笑)。

『ドラクエIII』で『I』から『III』がキレイにつながって、最初にやりたいと思っていたことが、いちおう全部実現できた。だから実際に悩んだのはその次からですね。『ドラクエIII』がブレイクしたので、『ドラクエIV』への期待が大きかったわけですよ。どうしよう、やりたいことをある程度やりつくしちゃった、と悩んだ。それで、『IV』では、それぞれ仲間たちにも人生があるんじゃないか、という発想で、オムニバス形式で仲間キャラクターの物語を体験できるかたちにしました。『ドラクエ』の制作では、いつもこうして大きなフォーマットを考えてからスタートしています。たとえば『ドラクエV』では、今度は親子3代にわたって魔王を倒す話を書いてみよう、しかもゲームの中で本気でプレイヤーを悩ませてやろうというところから、始まりました。

――現在はどのくらいのスタッフでプロットを考えているのですか? また、ゲームを制作する上で大切だと思うことは何でしょうか。

プロットは僕自身で考えていますが、だんだんゲームが大きくなってきたので、実際の細かいセリフなどでは、『ドラクエIV』あたりから何人かのスタッフに協力してもらっています。『ドラクエVII』は5人が参加していますね。なにしろ、シナリオだけでA4の紙に1万6000ページくらいある。8センチファイルで20冊分に相当する分量です。とても1人で書けるレベルじゃないですよね。ゲームの制作そのものは、しだいに分業制になっていって、『ドラクエVIII』でも総勢200人以上という規模になっています。制作期間も長くなって、1つのゲームをつくるのに4〜5年かかるようになりました。

ゲームで大切なことは、基本的に楽しく遊べるかどうかです。ゲームって不思議なもので、1つでもダメだと全体がダメということになってしまうんですよね。どんなに企画がよくて絵がよくても、操作性が悪いだけで台無しになってしまう。シナリオ、ビジュアル、音楽、操作性という要素のバランスが大切ですね。

[Interview5] モニターの向こうに人間を見てほしい

――これからゲームクリエイターやゲームデザイナーを目指す人たちへのアドバイスをお願いします。

我々はコンピュータを相手にしてゲームをつくっているけれど、実際に相手にしているのは人間なんですよ。だからコンピュータを見るのではなく、モニターの向こうにいる人間を見てほしいですね。そういう意味で、どういうものを皆がおもしろがるのかを考えてつくらないといけない。技術ばかりに走ってしまうと、とてもよくできているけど、遊んでみるとつまんないってことになっちゃう。

また、自分が自分のゲームの最初のユーザーなので、客観的にゲームを見られるようになってほしいです。惜しいと思うゲームがたくさんあるんですよ。よくできてるんだけど、ここをちょっと直すだけで、もっとよくなるのに!と思うものも多い。ひとつのゲームを制作するのも今はすごく大変なので、どんなゲームでも作り手はすごく苦労しているはずなんですよ。最後の詰めが惜しいともったいないですね。

昔にくらべて、「クソゲー」と呼ばれるものは少なくなってきていますが、逆に売れるゲームと売れないゲームとの差が激しくなってきています。ゲームには「ヒマつぶしの要素」と「楽しみの要素」があったのですが、現在、「ヒマつぶしの要素」は携帯電話でのメールやパソコンのインターネットにとられちゃった。みんな時間がなくなってきているので、本当に「やりたい」と思うゲームでしか遊ばなくなってしまったんですね。

――ゲームの未来はどうなると思いますか?

現在、ゲームは遊びとして定着したと思います。ブームは去ったけれども、娯楽のひとつとして、テレビを見る感覚でゲームをやっている。今の若い子たちは、物心ついたときにはすでにゲームがあったわけでしょう。これから彼らが老人になったときに、盆栽をやっているとは思えないんですよね。多分ゲームをやっているんじゃないか。そういう意味で、ゲームも細分化していって、それぞれの年代に合ったゲームをプレイできるようになっていればいい。

僕自身オンラインゲームをやってみて、年取ってからやればよかったと思いました。そのほうが時間がいっぱいあるし、ふだんは走るのもしんどくなってきても、ゲームの中では好きに走りまわれるし、若い人ともいっぱい話ができる。実社会だと、知らない人に話しかけると変人扱いされるんですけど、ネットだと話しかけても普通だし、皆親切なんですよね。現実の社会よりもネットの中のほうが温かみがあるという変な現象が起きています。

また、もしかすると将来はもっと別の新しいものが生まれていてね、「もう、おじいちゃんゲームばっかりやって、年寄りくさい!」なんて言われる世界になっているかもしれないですよね(笑)。

取材・文:岸田 麻矢
写真:小野 さやか

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