『スーパーマリオ』や『ドンキーコング』に『ゼルダの伝説』。誰もが知っているこれらのゲームと、キャラクターの生みの親。Nintendoという固有名詞を世界的なものにし、ビデオゲームを日本の代表的文化のひとつまでのしあげ、30年間ゲームのトップランナーとして活躍する“ゲームの神様”。
そんな宮本茂もかつては「学生」で「新入社員」だった。そんな彼が何を感じ考えてきたのか。若き日の奮闘、そして現在のような思考にいたるプロセスをうかがった。
――宮本さんは大学で工業デザインを勉強していて、任天堂にはデザイナーとして入社されていますね。
僕は小さい頃は人形劇の人形をつくりたくて、小学校の頃はマンガ家になりたかったんですけれど、大学で工業デザインを専攻してからは、それまでの「二次元の発想」から、手で触れる立体的な思考ができるようになったと思うんです。
ペンで描く平面という感覚から、手で触れる立体という感覚が身についた。グラフィックを見ても、触ったときの感覚で見てしまうというか、ビデオゲームもデジタルの世界ではあるんですけれど、コントローラを含めた触感を意識してしまうんですよ。手触りが気になる。また、人間工学で学ぶ、パイロットが飛行機を操縦するときの目の動きを調べて、誤操作のない計器のレイアウトを考えるとか、使っている人が快適かどうかという、機能からデザインする習慣がついたんだと思います。
――「気持ちよい」というのはビデオゲームの「核」の部分だと思いますが、ゲームクリエイターとして必要と思われる要素を学生の頃にしっかり養っていた形ですね。
大学で「金属を使ってイスをつくりなさい」という課題が出たら、生徒40人のなかで誰が一番魅力的なイスをつくるか?、というコンペの側面もあります。授業はその連続ですから。いわば、マンガを描いていたころから常にトレーニングだったんですよ。
――「おもちゃをつくりたい」という考えはいつごろからありましたか。
当時、うらやましいなと思ったプロダクトデザインが「ルービックキューブ」でした。人が喜んでくれるものをつくる側が考える、ということを思っていた僕が目指していたのは(エルノー・)ルービック博士だったんですね。「ルービックキューブ」を見たときはくやしい思いをしました(笑)。
僕は卒業制作のテーマとして知育玩具を選んだんですよ。当時、ジェローム・ブルーナーの認知心理学や、ジャン・ピアジェの教育論を読んだりしていたこともあって。「机の上で使う小さな知育玩具と同じ形をした巨大な遊具」をつくったんです。普段、自分がてのひらで遊んでいる穴に棒を通すような玩具の隣に、そのままそれを大きくしたものがあって、自分がその穴をくぐり抜けることができるという作品でした。
――スーパーマリオ64でもマリオ以外が全部巨大というステージがありましたよね。
そういうのが好きなんですよね。ちょっとしたワンアイデアなんですけど。子どもの頃から、家のなかにテントをつくってそのなかに入るのが好きで。そういうことって生理的に気持ちがいいですよね。
――すごく現代美術的ですね。メディアアートに近いというか。
そう、メディアアートの方々には近いものを感じます。僕はとっ散らかすタイプだし、デザイン的な思考ではなくて「かちっとしたものより、歪みがある方がよろしい」と思って斜に構えてましたから(笑)。かといって自分はアートでもない、と学生の頃に気づいたんですよね。当時、工芸の友達やバンド仲間で、路上で針金細工をやっている人なんかもいたりしたのですが、自分は一点ものを練り上げるよりも、マンガ家に憧れていた頃からマスプロダクトをやりたかったんです。バーっと印刷してたくさんの人にバラまかれる、そういうものに興味をもっているんだってわかったんですよ。
それで当然、たくさんつくるには企業に入らないと仕方がない。アイデアを形にするのが学生時代にやっていたことですから、それを実現させてくれる会社を探していたんですね。そこで任天堂に入ったんです。
――任天堂に入社されて、テレビゲームをつくるまでに少し時間がありますよね。
もちろん入社当時は今のようにテレビゲームはなかったし、任天堂としてもゲーム&ウオッチすらまだつくっていませんでしたから、立体物を提案したり、段ボール玩具をつくったり、もともとボードゲームやトランプが好きでしたから、そういったものを手がけたりしていました。
新人デザイナーの仕事は業務用ゲームマシンの銘版のデザインですね。ゲーム機のボタンや、装飾的なプリント部分のデザインをしていました。コイン投入口に25セントとか50セントって描いたり。そのとき任天堂にはデザイナーは5人くらいしかいなくて大変でしたけれど、その少人数でゲーム機の説明書から、ゲームセンターの大型機の筐体デザインから、またカルタからマージャンの封のシールまで、あらゆるものを体験させてもらいました。
――いまではグラフィックデザイナーが憧れる仕事ですね。
忙しいなかで、業務とは別にアイデアを出していましたが、なかなか採用される機会がないという日々が続きましたね。もともと考える習性があるものですから、人がつくってるものに「こうしたらいいんと違う?」って口出ししたりして仕事をしていました。
――そしてデビュー作の『ドンキーコング』を手がけられるんですよね。
ちょうどゲーム&ウオッチをたくさんつくっていた頃で、僕も担当じゃないのにアイデアを持っていったりしていて、でも担当じゃないから「まぁまぁ」ってたしなめられて(笑)。
2年目くらいですかね。僕が絵と筐体のデザインをやっていたゲーム機が売れ残ったので、中身をつくり替えようという話になった。僕の上司ではなかったんですけれど、ちょうど横井(軍平)さんというプロデューサーに、そんなに興味があるならっていうことでチャンスを与えてもらったんです。

『ドンキーコング』©1981-2006 Nintendo
――ビデオゲームはアイデアやグラフィックはもちろんですが、操作感が重要という話をよく聞きますが、『ドンキーコング』はデビュー作としては操作感やいわゆるゲームバランスに、ものすごく配慮されたものだと思うのですが。
操作感に関しては自分の感覚でしたが、技術的なことはぜんぶ先輩から教えてもらいました。僕はコンピュータを好きになれなくて、さっきも言いましたけれど「多少手あかがついている方がよろしい」などと言っていたほうなんです。けれど実際つくっていくと、デジタルはわかりやすくておもしろいし、それに技術屋さんって素人の質問に親切に教えてくれるんですよ。
テレビ画面になぜ絵が映るのか?という初歩から教えていただいて、テレビの比率は4対3の比率だったから、その比率の方眼紙を自分でつくってからドット絵を描いたり。仕組みがわかってくるとどんどんおもしろくなってくる。
いま考えると『ドンキーコング』はもちろん反省点が多くて、やはり紙の上でデザインされたものだなって思いますね。動きがカタいです。
昔は色を一色変えるにも色用のチップを焼くんですよ。それが一個数千円もして、しかもつくるのに半日かかったりする。そうするとあんまりリテイクさせてくれないんです。
――それはシビアですね。
いまだったらツール上で、瞬時にバンバン変えられる。当時はせいぜい3回変えるのが限度でしたね。『ドンキーコング』はプログラマーのセンスによるところが大きくて、僕は最終的なジャッジを下しただけです。マリオ(注: 当時、マリオというキャラクター名はない)がジャンプして床に着地するときの感触が気持ち悪いから「もうちょっとふわっと着地させて」だとか、「もう少し樽を飛べる高さで」とか、そういう調整ですね。
――その頃は何人くらいの体制でゲームを仕上げていたのですか?
プログラムチームが4人くらい、サウンド担当がひとり、デザインとディレクターが各1名の6人体制でしょうか。
――ゲームセンターで筐体を手がけていた頃から比べると、ファミコン、スーパーファミコン、ニンテンドー64、ゲームキューブ、Wiiと、開発規模も人数もどんどん増えていきますよね。
ファミコンは6人から10人、スーパーファミコンで20人弱になりました。制作期間も『ドンキーコング』は3ヵ月でつくっていたのに『スーパーマリオブラザーズ』で8ヵ月『ゼルダの伝説』で1年『スーパーマリオブラザーズ3』で2年ですね。
もちろんすべてがかかりっきりでつくっているわけではなくて、だんだん自分のつくり方が確立されていきます。つくるのはずっと同じペースじゃなくて、最初の基本のパーツを開発するのに1年くらいかけるんですね。それをもとにまとめに入っていく。3年かかるゲームだったら、最初の18ヵ月はいろいろな実験をして、残りの18ヵ月で仕上げにかかるような感じでしょうか。最近だと『Wii Fit』のときもそうでしたね。最初の1年は5人くらいの体制でスタートしたんですよ。
――そういう「実験期間」では、特に落としどころが決まっていない遊びの部分をつくっているイメージでしょうか。
もちろん最終的なゴールは決めているんですよ。必ず実験とは呼ばずに「試作」と呼んでいます。頭で想像した遊びを実際に動かしてみないとおもしろいかどうかがわからないし、CPUの処理速度は実際にやってみないと「スーパーマリオ」のカメが画面上で何匹まで動くかわからない。キャラが大きくなれば敵キャラを小さくしないと、とかそういったトレードがいつもあるんですよね。ファミコンのような原始的なもののほうが、パズルを解いているようで楽しかったです。
――いまでは逆に制約がないことが難しいかもしれませんね。
たしかに最近ではメモリー容量は一年ごとに倍になって、容量は天井知らずに増えていますが、それでもインターネットだったら容量には制限がある。ロムにもある。だから最低限できることのなかでの足し算が必要になってきますね。ここで求められているのは、数学じゃなくて算数なんです。つくりたいものの器のなかでつくらないといけない、制限のなかでの設計こそが、難しいけれどもおもしろいものなんですね。
たとえばファミコンだと、256ドット、つまりテレビ画面を32×32のタイルで分割して表現しないといけない。これはすごく大きな制限ではあるんですけれど、お題に答えるおもしろさもあったりする。アイデアがおもしろいとか、容量のなかで詰め込むことが上手っていうことが、ほかのソフトよりも目立つことができる。それがゲームの第一世代というか黎明期の人たちの強みです。
その原理はいまでも続いているんだけれども、昔にくらべてなんでもできるぶん、よほどのユニークさがないといけないんですね。

――制約が多いぶん、プリミティブな遊びの部分がしっかりしているということでしょうね。その遊びの根源の部分、ゲームのコアの部分というのは日常のなかで探している感じでしょうか。
そうですね、それがよくわからないんですよね。やっぱり、経験のなかで自分がおもしろかったことの蓄積なんでしょうね。関西で育っているので落語と漫才から「間」だったり、どれくらいのアイデアなら合格で、このアイデアは失格というような判断は自然と身に付きました。それは4コママンガを描いていた頃から同じで、一応自分のなかには厳しい基準が設けられていたと思うんです。あとは、夢中になって遊んだ経験とかかなぁ。
アイデアはよい部分だけじゃなくて、同時に悪い部分もちゃんと理解した上でストックしておくことが大事かもしれませんね。両方とも理解して引き出しにいれておくことで、将来に生かせる確率が上がると思います。
――さらにひとつのアイデアだけではゲームはつくられていないですよね。
もちろんそう。ものすごくいい斬新なアイデアっていうものもあるかもしれないけれど、たとえば「Google Earth」のようなものは僕も昔からつくりたいなぁと思っていて、人工衛星からの写真と、それが民間に落ちてくる瞬間こそがアイデアが実現する瞬間じゃないですか。アイデアの実現はタイミングも大きく関わってきますよね。
いくつかの響きあうようなアイデアを組合せてゲームに落とし込んだときが気持ちいいんです。それは技術の進歩に関係なく、もっと根源的な遊びの部分に関わってくる話です。古いアイデアをリメイクするとよくなる瞬間もありますし。ヒットソングが20年、30年で巡るように、遊びにだって流行があって、それが回っているでしょう。

――アイデアに限らず日々、どんなことに刺激をうけていますか。
昔は「一度も観てないものは経験しておこう」という意識があって、歌舞伎やバレエを観にいったりしたことも少しはありましたけど、いばれるほどのことじゃないです。
で、最近気づいたんですけど、僕は人から誘われたことを断らないようにしてる。そうすると意外な拾い物がある。たとえば僕は犬を飼っているんですが、犬を飼っている近所の人に誘われて、どんどん犬好きの集まりのなかに入っていって、トレーニング教室や、犬の大会の世界を知った。そんな経験が『Nintendogs』というソフトのアイデアに結びついたりしてますね。
――iPhoneのアプリやフラッシュなど、昔とくらべるとゲームをつくる環境はたくさんありますが、たとえばWiiのようなコンシューマ機向けのゲームをつくるにはどうしたらいいのでしょうか。
僕らの時代には「テレビの世界にはいるにはどうしたらいいんですか?」って聞いたんですよ。そしたら「まずテレビ局に入ることです」って言われていた。最近、僕も同じような質問をされることがあるのですが、「ゲーム業界のどこかに入りこんで、そこで一生懸命頑張ることです」としか言えないですね(笑)。入社したら合間をみて動画をつくってプレゼンするのでもいいし、企画書でもいい、何かプレゼンできるものをつくり続けて、自分の考えを形にしたらいいと思うんですよ。あとはもちろん運ですね(笑)。

『Wii Fit Plus』©2007-2009 Nintendo
――ゲームディレクターとして向いているのはどういう人物ですか。
「行儀のいい負けず嫌い」ですね。それがどういう人を指すかというと、僕はギターの練習が好きなんですが、うまく弾きたい、人前で弾きたい。でもいざ人前で弾こうと思うとビビって弾けないんですけどね……。だから練習をしているのがいちばん快適なときになっています。それはさておき、「練習が好きな人」は負けたくないというか、なにか執着があって、こつこつ努力する。そういう人が向いているように思います。
あと僕らはチーム内でも悪いところは隠さずに言う。ゲームが完成した後でも悪かったところを指摘しています。いわば、傷口を開いて、さらに塩を擦り込む感じですね。完成後はいつも反省会をするんだけれど、いちばん失敗した箇所をズバズバ言う。というのも、僕らは常に素人からスタートしてるという意識でいるんですよ。「どうせ素人がつくったものだし」っていうのが開発の口癖で、そのほうが気楽なんです。そもそも任天堂という会社自体が、30年前にはビデオゲームのノウハウなんてゼロでしたからね。
新しいゲームをつくるときはほとんどゼロからスタートするわけですから、プロになる前にもう次の新しいことをやらないといけない。それを楽しんでつくってます。『Wii Fit』のときも、まずは体重計のノウハウがない。そこで、体重計メーカーに行って話を聞くところから始めるんです。
――今後の宮本さんの活動や、次なる方向性を教えてください。
コンピュータって紙と印刷機のような大発明で、それがどんどん進化しているわけでしょ。無限の可能性があると思うんですよね。それを幅広く、狭めずにやっていきたいですね。
ビデオゲームは一般的な工業製品よりは気軽につくれるものだったし、僕にとっては身近で便利な道具だったから、どんどんビデオゲームばかりつくるようになってきたんですが、根っこにはビデオゲーム以外もつくりたいという興味があります。たとえば『ニンテンドーDS』のパブリックスペース利用として『時雨殿』(京都嵐山の「百人一首」をテーマにしたミュージアム)でのガイド機能などもそうですが、ゲームを一般的な道具として利用してもらいたいとも思っています。そもそもDSは携帯ゲーム機でありながら、本の形態を落とし込んだものというイメージだったんですよ。だから最近はゲームに限定しない、もっと広いものつくりにも興味がありますね。
取材・文:古屋 蔵人
写真:宮前 祥子
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1952年11月京都府園部町生まれ。1977年金沢美術工芸大学卒、任天堂株式会社入社。現在同社専務取締役情報開発本部長。『ドンキーコング』『スーパーマリオ』『ゼルダの伝説』をはじめとしたゲーム史に残る数々の傑作を手がけてきたゲームクリエイター。1990年日本文化デザイン賞、1993年日本ソフトウェア大賞’92「MVP」、1997年AMD Award ’96「Best Producer/Director賞」、1998年The First Annual Interactive Achievement Awards「THE HALL OF FAME AWARD」(アメリカ)、1998年第13回マルチメディアグランプリ「MMCA会長賞」、2006年レジオン・ドヌール勲章「シュヴァリエ章」(フランス)、2007年第12回AMD Award「功労賞」、同年TIME誌「TIME 100(世界で最も影響力がある100人)」(アメリカ)、2008年日本ゲーム大賞2008「経済産業大臣賞」、2009年ASIAGRAPH 2009「創賞」など、国内外にて多数受賞。近年プロデュース作品には『ピクミン』、『nintendogs』、『Wii Sports』シリーズ、『Wii Fit』シリーズ、『Wii Music』など大ヒット作品多数。
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