Vol.2 竹宮 惠子

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革新的なテーマと奔放なストーリー展開、そして華麗なキャラクターに込められた巧みな性格描写。70年代には『変奏曲』『風と木の詩』『地球へ…』などの作品群で萩尾望都、大島弓子らとともに少女マンガの一大ムーブメントを巻き起こした竹宮惠子氏。トップを走り続けた少女マンガ界の開拓者でありながら、現在では大学教授の肩書きをもつ教育者でもある竹宮氏に、これまでの道のりと漫画家としてのありかた、その未来についてうかがった。

[Interview1] 紙を与えればおとなしい子どもだった

――漫画家になりたいと意識されたのはいつごろですか。
自分のなかで密かに思いはじめたのは小学校高学年のころだと思うんです。とにかくお絵描きが好きで、絵を描くことだけが私の特技であり趣味。もう「紙さえ渡しておけばおとなしい子ども」っていう感じで、何時間でも描いていたそうです。
それがだんだん絵のなかのキャラクターにセリフをつけたりして発展していくんですけど。マンガといえるものを描きだしたのは中学生のときですね。そのころには市販されているマンガだけじゃ足りないというか、自分だけで楽しめるお話を描きたいと思っていました。
学校に行っている間にお話を考えて帰ってきたら描くという生活で、ペンの使い方なんか分からないから鉛筆でわら半紙に描いたものをバインダーに閉じる。しかもそれが毎日のことですから、とにかく量がすごい。
そのころには気持ちのなかでは漫画家になりたいと思っていたんですけど、当時は「漫画家」っていう職業があることすら田舎では考えられてなかったというか、思っていても親には絶対に言えなかったですね。

――投稿をはじめたのはそのころから?
初めて投稿をしたのは中学3年生のときですね。それまでは読者のお便り欄みたいなところに載るカットをハガキに描いて送っていたんですよ。でもそれがことごとく掲載されるんです。だから逆につまらなくなってしまって(笑)。
そんなときに「講談社新人まんが賞」の募集記事があったので応募することに決めたわけです。ちょうど石ノ森章太郎先生の『マンガ家入門』を知ったばかりだったこともあって、「もしかしたらできるかも」という気持ちになったんですね。でもそれは見事に落選して、名前だけが載るという結果でしたけど。
ちなみにそのとき賞をとられたのは当時高校2年生の里中満智子さん。掲載された里中さんの作品を見てすごく自分との差を感じまして、そのあと3年間くらいはプロになるのをすっかりあきらめていました。

――でもマンガを描くことは続けられていた。
それはもう、当然のように毎日描くことはやめませんでしたね。それで『マンガ家入門』を読んだ後、石ノ森先生に「漫画家仲間がほしい」といった内容の手紙を出したんです。その手紙を石森プロの近辺にいた「宝島」という同人誌をつくっているスタッフに渡してくださって、そこで原稿のやりとりをするようになりました。

――同人誌活動を経て、再びプロの道を目指すことになるわけですね。
里中さんが高校2年生でデビューされているので、やっぱりあせることもありましたけど、高校卒業までには何とかしたいなと思っていました。
ちょうど高校2年生の冬にマンガ雑誌「COM」が創刊されたとき、ちょっと運命が変わると思ってしまって。そこで石ノ森先生が『ジュン』を発表されていたこともあって、読んでいるうちにまた投稿したいという熱がわいてきたんです。

[Interview2] デビューしてすぐに直面したスランプ

その後、高校3年生で投稿した作品がそれぞれ『週刊マーガレット』と『COM』に入選してデビュー。原稿の依頼が増え続けた竹宮氏は進学先の徳島大学教育学部(現鳴門教育大学)を中退して上京、本格的な漫画家生活をはじめることになる。
東京・大泉の自宅は「大泉サロン」とよばれ、“花の24年組”といわれる同世代の萩尾望都や仲間たちが集う場所としてにぎわうが、やがて竹宮氏は漫画家として大きな壁に直面したという。

――デビューしてまもなく、漫画家として大きな壁にぶつかったそうですが。
私がスランプと称している3年間ですね。そのころ、ちょうど『マーガレット』がずっと続けてきたような“少女マンガの王道”から外れた、少女マンガの別のムーブメントが起きはじめていました。“表現系”というのか、言葉選びとか画面の描き方がスタンダードから逸脱していって、その人なりの表現をしていくスタイルが生まれてきたんです。
でも私って描き方自体はものすごくスタンダードなんですよ。だからそっちの方向へ行くのか行かないのか自分で決めかねている時期があって、本当に悩んでいました。そういった表現的、文学的な方向へ行くには下地となる素養がないといけないわけで、どれくらい本を読んでいるのか、映画を観ているか、音楽を聴いているかっていう問題になるんです。私は学校の勉強以外にマンガくらいしか読んでなくて、今から勉強しても人よりも遅れるだろうし、自分のなかにそういったものを持っているのか、追求していいのかも分からなかった。

――スランプのときも連載を抱えていたんですか?
普通に連載は続けているんですけど、描き方を変えていくことに悩みながらやっているんですよね。
スランプでつらくても仕事を受けずにはいられないというか、マンガの世界に飛び込んだときから「雑誌の紙面は有限」ということをはっきり意識して仕事をしていましたから。
ページが毎月とれるということが自分の居場所があるということなので、どんなに悩んでいても結果だけは良くないといけない。お金を払って買ってもらうのだから何もないマンガを描いてはダメ、何かを読んだ、何かを渡されたというものを描かないといけないという気持ちがすごく強かった。
逆にスランプでも描くことをやめなかったことが、一番私を救ったと思うんです。そうしていくうちに社会がマンガに対してのアプローチを変えていくなら作家も変わらざるをえないのかな、と思うようになって。遅れてもいいから、文学でも映画でも名作といわれるものをできるだけたくさん見ようと必死で追いかけましたね。

[Interview3] 少女マンガの可能性を開拓

スランプを抜けたあとはヒット作を次々に生み出し、1970年代後半には代表作となる『風と木の詩』『地球へ…』を発表。少年マンガ誌で連載されたSF作品『地球へ…』は、女性だけではなく男性からも高い支持を受け、少女マンガの可能性を広げていった。

――『地球へ…』についてですが、これは「SF作品を描いてほしい」というオファーだったんですか?
SFにしてほしいという注文はありませんでした。当時は少女マンガの描き手が少年マンガに飛び込んでいくこと自体が冒険ですから。だからといって普通の話を描いても対抗できないので、いっそのことSFにしたほうがいいかなと思ったわけです。
その時期は『2001年宇宙の旅』からはじまる一連の映画作品が公開されたりして、SFというジャンルが盛り上がっていたこともありましたし。SFに対する知識がそんなにあったわけではなかったんですけど、「やってしまえ!」という感じで、若さのなせる業というか。SFではまずセンス・オブ・ワンダーが大事だって言われているので、それさえあれば何とかなるかなと思っていました。
いざ連載がはじまったら必死でしたけどね(笑)。科学雑誌を読んで一生懸命後づけをしたり。

――汚染された地球を捨ててコンピュータで完璧に管理された社会をつくるという設定は、当時の社会問題や現代にも通じるテーマが含まれているような気がします。
戦争から公害、石油ショックにいたるまで、そういった問題は人間が起こしていることなんだという自戒の思いみたいなのがあって、「人間も統制しないとこの世界は直らないのでは?」っていう発想で世界観をつくっていったんですよね。
でもそのことを声高に描こうと思ったわけではなく、作品の世界観を構築するために必要なもの、というチョイスに過ぎない。要するに私自身がまだマンガの世界でも新人ですべてに渡って受け入れられてるわけではなく、ある意味抵抗勢力ですよね(笑)。
そんなことを自分のなかで感じていたので、「新たな扉を開いていく」という抽象的な部分を主人公たちに託した。それが本来のテーマだと思うんです。

――第1部終了後、半年ほどおいてから第2部がスタートします。読者からの反響を受けてのことですが、作品を連載しているときに「読者の反応をどこまで受け入れるか」といったことは考えますか?
もちろんです。私はファンレターやアンケートも、手元に届きさえすれば全部読みます。でもそれをどう読むかというのが大事だと思うんです。その人の書いていることが表面的な反応なのか、深いところで私の大事なテーマに触れているのか、ということはすごく考えます。「自分が何をしたんだろう」ということは読者の反応を見ないとはっきりと分からないので、むしろ反応は見ないといけないものだと思っています。

――反響を受けてストーリーが変わることは?
それはありません。ファンの反応を見てつくるというより、描いたものがどういう方向で反応するか予測して、その結果を見て、さらにその次を描いていく。そういったやりとりをするのが作家の仕事だと思うし、作家として一番難しい部分だとも思っています。それはずっと週刊誌連載をしていたから覚えたことで、週刊誌はだいたい2週間くらいで最初の反応が返ってくるんですよ。
それを受け取って次を出して、ということができるので。でも“読者の言ったことをそのまま描きました”と思われるような描き方をしてはダメなんです。それをどう読んでどう返すかというのが工夫だと思いますし、その工夫を読者によって促されることが私にとってはすごく楽しい。何より「相手がいるんだ」と自覚できることがうれしいですね。

[Interview4] 若い人にマンガの技術を伝えたい

少女マンガに一大ムーブメントを起こした竹宮氏の活躍は続き、さらに2000年には京都精華大学マンガ学科の新設に合わせて教授に就任。ベテラン作家に「大学教授」の肩書きが加わった。2006年にはマンガ学科を発展させたマンガ学部が新設され、竹宮氏も現在、新たなカリキュラム編成に向けて多忙な毎日を送っている。

――大学では脚本制作を指導しているそうですね。
脚本をつくるというのはどういうことなのか、物語のありかたはこうなんだというところから教えています。いわゆる起承転結だとかコンストラクションとは何かといった基礎知識ですね。もちろん実習にも関わっています。

――最初はどういったことから指導するんですか?
マンガが好きで入学してきた人たちですから、一応は普通に描けるんですよ。課題を与えて8ページで構成しなさいと言えばちゃんとこなせる。だからといって構成が分かっているかというとそうでもなくて、1本や2本なら描けるけど連続的に作品を生み出すことができない。期間内に作品を作りあげるというのは訓練なので、話を持ちかけられたらすぐに立ち上げられる、そういうことができるように訓練するんですね。
物語というのはどういうもので、どの要素が足りないとか、足りない要素を加えるにはどうしたらいいか、そうしたことを常に考えていないと分からないので。やっぱりデビューしたあと、2年くらいはそれがつかめなくてボーっとするんですよ。引き受けた仕事をまっとうできなくて、次の仕事につなげることができなくなる。だから必要な基礎は早めに覚えたほうが得だよ、ということを教えているわけです。
1年生は4コママンガからはじまって8ページの作品を完成させるところまで指導しますが、その間にペンの練習とかマンガの技術についても教えます。入学したてのころはペンの機能性についても知らない学生が多いですから。ペンって、ペン先を開いて字が書けるものなので上からやわらかく押さえないとその弾力を使えないんだけど、みんな固く握りこんでしまうんですね。動かないように固めて持って、ヒジを動かして書くものだと思っている。それは違うよ、というところから言わないといけない。
今はコンピュータで絵を描く人もいますが、結局ペンなり鉛筆なりを上手に使いこなせる人がそういった機器にも対応できるんですよ。

――実際にプロになった方は?
ほぼ毎年、数名単位でプロデビューを果たしています。応募作品で賞をもらったという人もいますし、ちゃんと続けて仕事になっている人もいます。でも大学を出たからといってもプロの漫画家になれるという保障はないということは最初に必ず言いますけどね。大学がそういった権威になってもらいたくはないし、私がいる限りはそれはないなって。権威になるマンガなんてノーサンキューですし、「この描き方をしなければダメ」という教え方だけはしたくないです。

[Interview5] マンガ家に必要なのは“反骨の精神”

――現在、マンガを執筆するペースは?
今はちょっと描けないですね。大学で教えるようになって最初の3年くらいは夏休みに必ず仕事をしていたんですけど、今は夏休みでもAO入試やオープンキャンパスなどがありますし。しかも私はいま教務主任になってしまったので会議にも出ないといけない(笑)。でも学生と一緒にやっていると描いた当時の気持ちを思い出すというか、絵に対する新鮮な感覚が戻ってくる感じがして昔の絵が描けるようになってきた。時間があれば描きたいという気持ちは常にありますけど、今は「描く」ことにシフトしていないのでそういった意味でのアンテナを張っていなくて。また勉強しなくてはと思っています。

――作品の構想みたいなものはすでにあるんですか?
ひとつは『風と木の詩』をちゃんと終わらせてないので、何とかしないといけないかなと思ったり。でも連載では描けない話なんですよね。地味だし、そのページを担うことができないのでほかの人に渡しておかないと。そうすると描き下ろしでやろうかなっていう。でも描き下ろしは雑誌連載とは別の自己管理が必要なので、本当にできるかどうかはわからないんですけどね。

――最近ではプロになっても同人誌活動をされている作家さんもいますが、竹宮さんはそういったことに興味は?
あまり考えたことはないです。大学で学生に教える仕事がこなければ、やっていたかもしれないなとは思いますけど(笑)。

――漫画家は基本的にひとりで全部の作業をこなしますよね。大変な仕事だと思いますが、長年続けてこられた理由はどこにあるのでしょうか。
逆に全部ひとりで制御できるところがマンガを選んだ理由だと思います。その分ひとりで全部の責任を負わないといけませんが、「自分が何をしたか」というのがダイレクトに跳ね返ってくる。それに漫画家って作家的なんだけれども読者の要素が入ってきやすい。垣根がなくて、色々なスタンスがあっていいというマンガの媒体としての態度が好きなんです。

――最後に、漫画家を目指す若い人たちへメッセージをお願いします。
漫画家というからには反骨の精神をもってほしいです。人が知らないことを提示していかないといけないので、ジャーナリスティックな気持ちを忘れないでほしいですね。ものの見方が人と違うということを誇りに思ってください。

取材・文:村山 貴子
写真:田附 愛美

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