• インタビュー
  • キーワード
  • 作品リスト

藤幡 正樹

インタビュー

藤幡 正樹(ふじはた まさき)

1956年東京生まれ。メディアアーティスト、東京芸術大学大学院映像研究科長。1996年には、ネットワークで結ばれた仮想の部屋がテーマの『Global Interior Project 2』でアルスエレクトロニカのインタラクティブ・アート部門、ゴールデン・ニカ賞を受賞。また、インタラクティブな本『Beyond Pages』がアメリカやヨーロッパを巡回してドイツZKMのパーマネントコレクションとなる。最近の作品には、『ルスカの部屋』や『モレルのパノラマ』の他、GPSを用いたプロジェクト『Field-Works』シリーズを展開している。

日本のメディアアーティストの第一人者であり、海外でも高い評価を得ている藤幡正樹氏。大学院で若いアーティストの教育に携わりながら、新しいテクノロジーを使って本質を見極める作品を数多く生み出している。海外や日本において、メディアアートはどのように捉えられているのか、そして日本のメディアアーティストには何が求められているのかを伺った。

[Interview1] メディアアートを取り巻く現在

——メディアアートとは、いったい何なのでしょうか。

その説明には苦労してるんですよ(笑)。このジャンルは一般化していると言われているとはいえ、日本におけるメディアアートに対する考え方と海外の考え方というのは、微妙にずれていると思いますね。ここ100年くらいの現代美術の枠組みの中で、「新しいメディアをどうやって表現の媒体として取り込んでいくのか」という大きな議論があって、メディアを積極的に取り組んでいく方向と、それに大反対している方向とのふたつの動きがあります。

特にドイツは、結構激しく戦っていますね。とはいえ、今ではドイツの美術大学にも、メディアアート科というのがずいぶん多くできちゃった。今までの油絵や絵画、舞台美術やデザインなどの分野とは別のスロットで、メディアアートが独自にあるんですね。つまり、新しいメディウムを使った新たな表現の世界が始まっているということに関して、了解があるんだと思います。アメリカはMIT、スタンフォード、カーネギーメロンのような情報工学の学科が強いことと、ハリウッドとディズニーにそういう新しいメディウムを使った創造性が吸収されてしまって、現代美術と接点がほとんどゼロなんですよ。アメリカのメディアアーティストはそういう課題を抱えていて、苦労していますね。

――よく、アメリカのメディアアートの話になると、ディズニーが引き合いに出されますが、なぜでしょうか?

ディズニーの根本は、テクノロジーを隠すということです。徹底的にテクノロジーを見えないようにする。逆に、メディアアートっていうのは、メディアのコンディションを批判的に調べるという姿勢がないと成立しないので、隠さないんです。エンターテインメントの場合は、そのへんはできる限り見えないようにしないと、見る人をだませないじゃないですか。ディズニーランドは、コンピュータがない時代からそれをやっているわけですよね。だけど、コンピュータ以降もその姿勢は変わらないし、そんなの意識しないで、みんな遊べているというのはすごいですよ。現代の工芸ですね。めちゃくちゃうまいですよ。

[Interview2] メディアアートはコンテンポラリーアートか?

——いわゆる現代美術の流れの中で、メディアアートはどこに位置するのでしょうか。

ヨーロッパは、きちっと市民革命を通過していますから、美術芸術の世界も、一部の貴族やブルジョワの持ち物であった美術品が、誰でも見ることのできる状態が生まれました。現在でも技術に関してセンシティブなのは、技術が権力とつながることで、それが兵器として戦争に利用されてきたからでしょうね。フランスのインターネット嫌いは、そうしたアメリカの独占的な支配に対する脅威から来ています。

今さらながら、考えてみると、写真もひとつのデモクラシーですよね。写真ができたために技巧的に写し取ることを、アーティストがやらなくなった。そこから絵画は、もっと精神的な概念的世界に入っていくわけですが、しかし、その延長線上にメディアアートをおくと、混乱しますよね。コンテンポラリーアートはさまざまな展開があった上で、コンセプチャルアートまで行ってしまった。物質を通して概念を語る世界になっているけど、メディアアートは具体的に動くものを作って実現しなくてはならないアートの分野なので、実現しないと、考えてることが提示できない。電気を入れて、動かないといけないわけですよね。

現在の技術を使っているから、メディアアートっていうのは意外と不安定で、フラジャイルなものなんですよ。かろうじて成立しているような作品とか出てくるわけです。そうすると、メディアアートをどこにつなげるべきかというと、写真以前ですよ。写真の登場によって、印象派以降、目に見えないものを描くという方向に現代のアートがねじ曲がってきたけれども、メディアアートって写真以前の状況からの延長線にあって水面下に潜んでいたのが、たまたま現代に噴出してきたみたいな感じがします。19世紀に写真が出てきて、20世紀にコンピュータが現れて、21世紀にはまた全然違ったメディアを使ったアートが出てくると思いますね。今の現代美術の文脈にメディアアートをつなぐ必要はないんです。むしろ、そうしようとするから混乱するんですよ。

[Interview3] 2ちゃんねる的な日本のメディアアート

――日本のメディアアートはどういう状況ですか?

日本には、また別の面白い状況があって、頭の上で「ヨーロッパではこうだ」「アメリカではこうだ」と言っている状況とは、全然別なんじゃないでしょうか。マンガ、アニメ、ゲームといったものが、メディアにおける表現の可能性を自覚する以前に、周囲にひたひたとあるわけですよね。「こんなことがあったら面白いよね」と言っていたら、ひと月もすると、もう売られているという状況がある。たとえば、GPSが携帯に付いたら面白いよね、と言っていたら、次の月にはもう売っている。すごいよね(笑)。そういう環境の中で、新しいメディウムに興味を持っている日本の若い人たちが、自分の表現において何をやっているかということは、ヨーロッパ的な意味でのメディアアートとはずいぶん違うと思うんですよ。携帯電話にGPSを付けるというようなことが、個人の想像力と市場生産の速度が、等速度で起こってしまうので、逆に、市場で売られている商品が、悪い言い方をすると「悪ふざけ」に見えてしまう。

これまでであれば、企業がマーケットとして成立しないと思っていても、「こんなのあったら面白いじゃん」というニッチを狙った王様のアイデア的な方向の商品でも、最近は企業が実際に作ってしまう。周りが全部、市場に攻められているから、若者たちは、お城の生け垣の隙間にかろうじて生えている雑草のように、何か作品を作っている……といった感じですね。これでは、やっていることや作っているものが本質をとらえてないとダメです。それこそ、根源的な意味で、なぜ、人間がコミュニケーションをしたがるのか、といった問いを、きちっと掘り下げたところから作品を作らないと、それはアートとしては残らないですよね。メタファーとして言えば、生け垣の間に生える雑草でしかなければ、生け垣を崩すことはできないかもしれないけど、松の木だったら生け垣も崩れるかもしれないでしょ(笑)。

そのあたりのタフネスが、今の日本の作品や作家にはないんじゃないかな。やっぱり、ヨーロッパはしぶといよね。世の中の流行は見ているけど、常に、流行に対しては批判的ですよ。日本は批判ではなくて、本当に「2ちゃんねる」的なシニカルなポジションを取る連中が多い。要するに、日本の作家に批判性がないってことは、それがなくても作品として成立すると思ってるからだよね。今のメディアの上で何か表現しようとするときには、そのメディアのコンディションを掘り下げるという仕事をしなくちゃいけない。例えば、GPS付き携帯電話にしても、誰でも思いつくし、技術的にもできてしまうわけですよ。その先どうなるかというのは、企業はもちろん商品として考えるけど、アーティストは作品として考えなきゃいけない。本質的に人間の知覚や認識、世界の見え方を変えるのは何かということを、アーティストが掘り下げていくような動きがないと面白くないし、やる意味ないよね。その部分が非常に弱いから、とても残念に思っていて、これだけ環境的に高速度で、ファッショナブルで、ツールはそろっているんだけど、逆に、環境が良すぎて、スポイルされていると思いますね。

――それは、何が原因でしょう?

直接的には教育が悪いんでしょうね。表層的には教育なんだけど、どうしてこういう教育が生まれてきたかっていうと、西洋コンプレックスがあって、近代化の過程で市民革命を経てないっていうのが、決定的な問題なんですよ。明治以来、西欧化するっていうのが近代化とイコールになっちゃったんです。これだけ西欧文明化はしたのに、個人主義などを含め、その本質的な概念は根付いてないわけ。経済的にはうるおっているけど、知性的にはどうなのか。やっぱりデモクラシーを経てないから、僕たち自身が直接他者と関わっていくという自覚が足らないと思いますね。

アートって、哲学やテクノロジーとも関係があって、かなりメタレベルの高い分野ですよね。科学技術教育と言うけれども、日本の場合はかなり高いパーセンテージで技術なんだよ。可能性実現に重きが置かれている。本来のサイエンスって、「私たちはどこから来たのか」という疑問に答える学問の世界だと思うんだけど、今の日本で、本当の意味で、この人は科学者だなって思える人もあんまりいないですよね。日本の美術も、また歴史的に職人の世界が中心なんですよ。江戸時代以前から工芸的です。評価のされ方で『上手』というのがすごく高い価値をもっているでしょ。上手なんてほとんど意味ないんだよ、技巧というのはやればできるんだから。むしろ、それが必要になる状況がどこから来るのかについて、どれぐらい考えているかじゃないのかな。

[Interview4] 技術の進化にメディアアートは追いつけるのか

『Beyond Pages』(1995−1997)

――最近では技術の変化がとても早いですが、メディアアートがそれを追従していくのは大変ですよね。

次々に出てくるものを、面白い、面白いと言っていると、何も作らないで10年経っちゃう。こういう世界でモノを作っていくのであれば、「一生、この技術と付き合ってもいい」と思えるところで見切りをつけないと、本当に新しい仕事はできないですよ。

新しいことって、本当は、それまではなかったことだから、自分で見つけてくるしかないんです。「本当に新しいものは、見えないものなのだ」っていう議論が1番目にあるとすると、2番目に、ファッションならファッションの世界の中でトレンドを作っていける人に、どういう創造性があるかというと、新しい世界を翻訳できる能力を持っている。つまり、自分が思いついたことや考えていることが本当に新しいってことを、あるいは、自分が考えたことが新しくないということを含めて判断できる知識レベルが必要です。歴史をはじめ、全部知らないと、それが新しいのかどうか分かんないし、作る物も全部クリシェになっちゃう。

――技術があふれている日本の環境において、メディアアートを手がける人の中にも、技術はすごいけれども、中身がついていかないということがあるのでしょうか?

本質がなければそうなりますね。未だに鉛筆で絵を描いたって新しい絵は描けるし、文章だって、目の覚めるような文章だって出てくるわけですよ。それを作り手という立場から言ったら、新しいテクノロジーを使えば新しいことができるというわけじゃないし、むしろ、新しいテクノロジーを使うにしても、その技術が出てくる以前から、それを必要としている必然性が作り手の側にないと無理だよね。

自分のこと例で言えば、こんなにコンピュータの(処理能力が)速くなる前から、「もうちょっと速ければ、ああいうことができるのになあ」というのをずっと溜めてるわけだよ。「Beyond Pages」の場合、マッキントッシュのPowerMac8100が出てきたときに、「あー、やっとできるなあ」と思ったんだよね。あれの場合は、画面の中に写り込んでいるアイテムをポインティングするという行為の本質なんです。例えば、僕が物を凝視しているときには、ポインティングしているわけです。僕が見ていることを皆が見ていて、僕が何かに興味を持っていることを表明することになる。そのポインティングという行為が成熟してくると、漢字になったり言葉になったりするんだけど、実はその前段階があって、(本当はそこが面白いんだけれども)これまでの技術でそれについて論じることは難しかったんです。そういうことがコンピュータを使うと、すごくキレイにできる。興味のあるところを触ればいいんだから。極端にいえば、見つめただけでページがめくれるようなことです。そういうのってコンピュータを使うと実現できるじゃないですか。

80年代に初めてマウスで絵を描いたとき、これがまた思うようにいかない。いってみれば、洞窟で絵を描いている感じじゃないですか、しかし、いつも使っている鉛筆だったら思ったとおりに描ける。つまり、メディアのコンディションがよく分かってる。だからこそ、絵を描くことは何かということが、どっかに行っちゃうわけですよ。ところが、マウスで描くときの思うようにいかない部分に、実は本質が見えるという面があるんです。新しいテクノロジーなのに、すごく根源的なところに行く可能性があるな、と思いましたね。そういうところがコンピュータというメディアと付き合っていて新鮮ですね。

[Interview5] 日本のメディアアートの未来

――今後、日本のメディアアートはどういうふうに変わっていくと思いますか?

どうなるかな、難しいよね。メディアアートって言い方で括らない方がいいって気がしてるんだけど……。新しいメディア技術のコンディションを掘り下げていくことは、必ずしもアーティストだけがやらなきゃいけないわけでもなくて、いろいろなジャンルの中にあるんだと思うんですよ。ヒット商品にもそういうところがありますよね。テープレコーダーを小さくしたら面白いんじゃないかというのが、ウォークマンになっちゃったとか。あれはアーティストが作ったものではないけど、音楽の聴き方を変えてしまったでしょう。それをもっと別の意思や音楽に対する方向性を持った人間が作ったなら、あれ自体がひとつのアート、あるいはアートのジャンルになったかもしれないしね。

西欧的な意味でのアーティストのセンスを持った人が、日本だとそういう業界の中にいるんですよ。だから、消費者側が全部ガス抜きされちゃう。買えば終わっちゃうんだよ。ウォークマンを買ったら、アートをやった感じになっちゃうわけです。テレビ番組もそう。全部笑って消費しちゃう。もうちょっと深く掘り下げれば、すごく面白いことができるのにね。

ヨーロッパは、地勢的にも、歴史的に、もっといろんなメタレベルが絡み合ったところでモノ作りしてるから、アプローチの手法の幅が広いですね。日本人はせまいと思います。作品らしくしないといけないと思ってる。それが弱さです。例えば、音楽の世界で言うなら、「CDを作らないとミュージシャンになれない」みたいなところが日本人にはある。フォーマットがあって、メディアアートっぽくしないとメディアアートにならないという傾向がありますね。

例えば、オーストリアの若いグループのパフォーマンスで結構評判になったのがあって、ロボットが自分の基盤を金属のブラシでゴシゴシこするんだよね(笑)。バカバカしいけど、彼らはそれでテーマとして自己言及について語っているわけだよ。「次の文章は間違っている、前の文章は正しい」っていうのを自己言及文と言うんだけど、この調子だと無限に定義が定まらない。このロボットが自己言及で自分を調べると、事故が起こる。つまり、最終的にボードが壊れちゃう。みんな面白がって、展覧会になるとジャンクのボードをいっぱい持っていくらしいよ。でも、これが日本に入って来た場合、どこに場所があるかっていうと、雑誌だと「ラジオライフ」だし、Webだと「2ちゃんねる」だよね。「面白い!」と言って消費しちゃってもいいんだけど、ヨーロッパではそういうのがアートのコンテクストの中で出てくるし、みんなそうした活動を意識的に、意図してやってる。

――メディアアーティストとして日本で活動していくのは難しそうですね。

メディアアーティストとして活動するには、日本にいないほうがいいでしょうね。自分を相対化する能力がないと、アーティストとは呼べないでしょ。そのためにも、時間的方向で言えば、歴史を学ぶことだし、広がりで言ったら日本じゃないところに行ったほうがいいし、違う言葉を勉強したほうがいいと思う。日本にいるのであれば、アーティストとして生きてゆくってことを考えなくても、本来の意味でのメディアアート的な能力を発揮してゆくつもりがあるんだったら、企業の中でも十分能力を発揮できると思いますね。あるいは、そういう会社や対象に対して、刺激を与えていけるような仕事をした方がいい。技術的にとても面白いことを、実際にしてる人っているじゃないですか。でも、人生とか世界観を変えようと思っているわけじゃなくて、こうすると便利になるから、あるいは、単純に売れるという方向でやっているわけで、アーティストとしてやるんだったら、世界の見え方が変わらないと。思いつきだけはあっても、本当に一発芸になっちゃうよ。リアライゼーションの技術もアイデアもあるとは言っても、アイデアなんて100個くらい出てくるんですよ。その中で、どれが本質を突いてるかを見極める目がなくてはならない。他人にウケるからやるというのは、本当に惜しいです。

取材・文:岸田 麻矢
写真:田附 愛美

ページ上部へ戻る

Pick Up Archive 今こそ読みたい。これまでの記事をご紹介

中村 勇吾

巨匠インタビュー
中村 勇吾

ボツになるほど、引き出しが増えていくということですから...

トーチカ

作家インタビュー
トーチカ

作品をつくろうと思ってつくったものじゃないんです。始まりは...

竹宮 惠子

巨匠インタビュー
竹宮 惠子

スランプでも描くことをやめなかったことが、一番私を救ったと思う...

渋谷 慶一郎

コラム:データミュージアムは可能か? 渋谷 慶一郎

電子音楽とメディアアートの関係について考えてみると、その2つの...

押井 守

巨匠インタビュー
押井 守

実写であれ、アニメであれ、僕が一貫してやってきたことは...