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河口 洋一郎(かわぐち よういちろう)
1952年、鹿児島県種子島生まれ。CGアーティスト、東京大学大学院/情報学環教授。1975年からコンピュータ・グラフィックスの制作に着手し、 1982年の国際学会SIGGRAPHにて『Growth Model:グロースモデル』を発表、一躍世界中から脚光を浴びる。国際大会でのグランプリを数多く受賞し、第100回ベネチアビエンナーレ日本代表芸術家に選ばれるなど、国際的な舞台で活躍しつづけている。2000年以降、反応する情感コミュニケーションがテーマのインタラクティブな作品『Gemotion:ジェモーション』を発表している。
世界的なCGアーティストとして、精力的な活動を続けている河口洋一郎氏。コンピュータ・グラフィックスの黎明期からCG制作に携わり、そのユニークな手法から生み出される作品群は海外からも賞賛されている。CGで生命体を生み出すという『グロースモデル』が生まれた背景から、さらにインタラクティブに発展させた『ジェモーション』が誕生する経緯まで、そしてアートと生物の進化との共通点についてうかがった。
——なぜコンピュータ・グラフィックスをはじめたのですか。
「CGでしかできないことをやる」という大前提があります。つまり、僕はCGで芸術的な生き物をつくりたかった。そして、彼らと一緒に遊びたかったんですね。それには自分の生い立ちが影響しています。僕は種子島出身で、子どものころからたくさんの生き物に囲まれていました。海に行けばサンゴ礁があって、亜熱帯の赤い魚や青い魚、黄色い魚がいっぱい泳いでいる。野山には真っ赤なハイビスカスの花が咲いていて、ツマベニチョウというきれいな蝶が集まってくるし、アカヒゲという美しい野鳥も飛んでいる。そんな環境で育ったので、動植物に関する美的な出会いというのが、子どものときからすごく好きだったんですよ。
それから、小学生のときには、宇宙センターからロケットが飛びはじめた。小学校の校庭に出て空を見上げると、大空のはるかかなたにロケットが飛び上がっていくんですね。それを見て、宇宙に行きたいという夢が生まれました。宇宙に行ったら、種子島で見ているような、美しい野草やサンゴ礁、鳥などの進化したものに会えるんじゃないか、別の生命体に遭遇できるんじゃないかと思ったんですよ。でも、それが中学、高校、大学と進んでいくにつれ、宇宙にはそう簡単には行けないかもしれない、となった(笑)。
僕が行きたい宇宙というのは、近くの月とか火星とかではなくて、天の川銀河のどこか遠くの宇宙なんですよ。太陽系には新しい生命体はいないかもしれないと思ったから。しかしどうも遠くの宇宙に行くのは無理そうだとわかった。そこで逆に、行けないなら、行けたという仮説のもとに、その惑星を再現すればいいんじゃないかという発想に切り替えたんですね。それもただ自分が空想した未知の生物を描くのではなく、自然界の確固たる原理から生まれた生物を創造したいと考えたときに、CGじゃないとできないと思いました。CGでとても感動したのは、プログラミングすることによって、まったくのゼロから形が生成されることですね。
1976年 SHELL
(C)Yoichiro Kawaguchi
1981年 TENDRIL-ゆらぎの造形
(C)Yoichiro Kawaguchi
——CGで生命体をつくるという発想が実現するまでには、苦労も多かったのではないですか?
CGをはじめた70年代は、僕にとっては暗黒時代。周りはみんな手で絵を描いていたから、学校の研究室内では当然共感が得られず、「アートをやるのになぜ数学をもちこむんだ」と言われてね、四面楚歌の時代が続いてた(笑)。要するに、プログラミングなどをやること自体が、アートの世界に異分子をもちこむような状況だったわけです。それと同時に、当時のCGでは線画しかできなかったから、絵を描いている人たちにしてみれば、展覧会にも出せない下書きのスケッチ作品を制作しているということになる。CGのマイナス面が強調されて、みんなに「早くCGなんてやめたほうがいい」、「自分をダメにする」、「一生終わりだ」と言われていました(笑)。
そうした状況で、いつもCGでしかできないものは何かと自問しました。オーム貝やアンモナイトなどの巻貝がもつ、規則正しく渦巻く精緻な形の構造って、手書きではなかなか再現できない。単純な形から複雑なものへと派生していく過程というのはCGの独壇場なんですよ。そこで1976年からは、自己増殖して複雑なものが生まれるという、自然界の原理に基づいた数理アルゴリズムを取り入れました。形を増幅させて生成する方法を通じて、科学としての自然界の美を、芸術として表現するアートをやろうと思ったのです。それが『グロースモデル』です。
——初期のCGがモノクロのワイヤーフレームだったということで、自分のやりたいことにテクノロジーが追いつかないという気持ちはなかったのでしょうか?
線画でも複雑なことはできたけど、1979年頃に国際学会SIGGRAPHに参加したら、海外のCGには面表現があり、さらに色がついていて「何これ!?(笑)」となりましたね。日本で最先端だと思っていたCGは線画だったのに、海外では色がついていたというのがショックでね。日本は20年くらい遅れていると思いました。こうしちゃいられないと、すぐにグロースモデルを面表現にして色をつけることからはじめました。本来やりたかった、海中の花のような不可思議な生き物をとらえようとしたのです。毎晩、深夜まで制作に取り組み、研究室から帰るときに計算のレンダリングをはじめれば、朝来たときには色彩豊かな形が生成されているという具合でしたね。
何年か続けて、『グロースモデル』で複雑系の形ができるということを実証したので、1981年の秋にSIGGRAPHに論文を投稿したんですよ。翌 1982年のボストン大会でグロースモデルを発表することができました。発表会場は、聴衆で超満員でしたね。当時はCGで自己生成をやる人はいなかったので、かなり注目されました。ただ、あのころは静止画をつくるのがせいいっぱいだったけど、今思えばもう少しアニメーションにしておけばよかったなあ。
——当時の作品はまだ現存しているのでしょうか。
じつはSIGGRAPH ’82大会が終わったあとに不運な事件が起きてしまって…。何かの拍子にディスクが壊れてすべてふっとんで、復旧不可能になってしまったんですよ。ちゃんとバックアップをとっていなかったから、「もう終わりだー」と頭のなかがガーンとなった。1982年は、僕の『グロースモデル』の世界デビューと、その後ディスクがこわれて全部喪失したというショッキングな事件が起きた年です。「メディアって、もろいな…何も残っていない…」と実感しましたね(笑)。
ということで、当時のせっかくの『グロースモデル』はあえなく失われ、かろうじて画像データだけが8インチフロッピーに残っていますので、復旧することができれば日の目を見ます。8インチフロッピーを再生できるマシンをだれか持っていないでしょうか。
――その後、『グロースモデル』の次の目標に向けて動きだしたと思われるのですが、それは何でしょうか。
CGで鮮やかな色彩の生き物をつくることのレベルそのものは高まっていったのですが、絵を描いてる人から見たら、まだまだ画像が粗くて「こんなんじゃ美術館に展示できない」とか言われるわけですよ。そこで、次は高画質をやろうと思いましたね。1989年のSIGGRAPHで、日本からハイビジョン装置を持ち込んで発表した『フローラ』がハイビジョンCGの最初の作品です。その後、やはり自分としては現代アートの大本命に参加したいと思っていたら、 1995年にベネチアビエンナーレに選ばれたんですよ。メディアアートとして初めて、ハイビジョンCGを立体視させる動画像と大型立体視静止画作品とを日本館パビリオンに展示しました。
――最初は「CGはアートとしてダメ」と言われていたのに、ついに現代美術の大舞台で世界レベルでのアートとして認められたのは感慨深いですね。
やっていることを他人から否定されるというのは、よく起きることです。その世界の常識からはずれた話をされると、自分たちの積み上げてきたものがもろくも崩れるわけですよ。絵画とはこう描かなくてはならない、という規則に従ってきた人にしてみれば、自然界の法則を使って作品を生み出すなどというのはもう別世界の話なんです。今までのアートの教育に対する方法論自体も壊れていきますよね。また、CGが一般に知られはじめた1980年代には、鉄則としてなるべく曲面をやめて直線にするようにと言われていました。だから、僕のようにすべて曲面で有機的な形というのはなかったですね。そういう鉄則を全部破って、逆のことをやってきたことは、まちがってなかったと思います。実際、自分がベネチアビエンナーレに出たことで、CGの現代美術に対する隔たりが急に取れたんですよ。CGの絵でも別に見劣りしないし、逆に絵画の間に高画質で立体感があるCGを配置すると目立って、みんなびっくりして感動するわけです。 1995年は、CGがアートになった記念すべき年でしたね。
2000年 Gemotion:凹凸Life Skin
(C)Yoichiro Kawaguchi
2002年 Gemotion:Japanese Dancing
(C)Yoichiro Kawaguchi
――『グロースモデル』から生まれた生命体が、『ジェモーション』へと進化していくのにはどういった背景があるのですか?
自分のつくった生命体と遊びたいとずっと思っていたので、その前段階として、イタリアのスカラ座でパフォーミングアーツの舞台を試みました。インタラクティブアートが出現する以前の1987年のことです。イタリアの有名なミュージシャンが生み出す音と僕のCG映像、民族舞踊を三者共鳴させたのです。連日超満員で大盛況でしたが、当時はまだコンピュータの計算スピードが遅すぎて、CGによる長編映像の上映はキツイなあと思いましたね。
2000年になってから、いよいよ自分のつくった生命体とインタラクションするために生まれたのが、『ジェモーション』です。これは『グロースモデル』の「Growth(成長)」に、遺伝子を意味する「Gene」と感情を表す「Emotion」を組み合わせた新しいネーミングです。感情の移り変わりを形や色の変化で表現して具体化させようと思いました。最初に制作したのは、画像の動きに連動してスクリーンが盛り上がるという、実験を兼ねた作品です。生き物と遊ぶために、スクリーンがイメージに合わせてボコッと盛り上がったり、ペコッとへこんだりするのです。ただ、このサイズだと、せいぜい5、6人しか楽しめないんですよ。インタラクティブアートって、少人数しか対象にしていないものが多くて、お金をかけているわりにはそれほど効率がよくない。僕が本来やりたかったのは、イタリアのスカラ座で行なったように、マス(大衆)を対象にすることでした。
――そこで、伝統芸能と『ジェモーション』を組み合わせる試みがはじまったのですね。
舞台で『ジェモーション』をやろうとしたときに、自分の国の伝統芸能がこのまますたれていくのはよくないと思ったことをきっかけに、日本舞踊の人たちとコラボレーションすることにしました。ウェアラブルコンピュータを着物の袖に取りつけて、動作に合わせて映像を動かすようにしたんですよ。これが『ジェモーション』の初期のパフォーミングアーツです。これを伝統芸能の人たちがどう感じるのか気になって、終わったあとに感想を聞いたら、「この世界が私の動きでコントロールできるというのはすごく気持ちいい、またやりましょう!」って言ってくれました。自分の動きがすべてをつくるわけだから、造物の神様になったみたいな気持ちよさがあるんですね。『ジェモーション』のパフォーミングアーツをはじめてから、再び海外からのパフォーミングアーツ関連の招待も多くなってきて、基調講演と基調パフォーミングアーツを兼ねて世界各地の大会で発表しています。いい意味で実験的にCGを舞台で使う、しかも大きな国際大会で発表できるというのは、その国独自の文化と触れあう楽しみもあって、やりがいが増しますね。
――メディアアートの未来はどうなると思いますか?
たとえば、現在ではインタラクティブアートはみんながやっていますよね。でも、ある意味でこれは「反応する」という技術的な驚きをテーマにしているために、もし大衆が慣れてしまったら、もう乗ってこなくなる。最初の作品は驚かすだけでも感動できるからいいけれど、あとには中身が深い作品しか残りません。キュビズムが世に出たときも、キュビズムの絵画は数多く制作されたけど、結局残った作品は少数の質の高いものです。現在のインタラクティブアートも、大衆が先行してしまったら、質の高い作品をのぞいて、すべてがバサッと集団的に消えてしまうことはありえますね。生き残るには、どこかで特殊性を出して価値を高めないといけない。
――アートにおけるそうした特殊性はどこから生まれるのでしょうか。
僕にとって、アートって生物の進化と似ているんですよ。たとえば、2、3万年前は氷河期で、日本や中国大陸がつながっていたけれど、その後、温暖化で海面が上昇したときに、陸地の中央に逃げた生物もいれば、島の突端に残った生物もいる。残っていたやつが特殊進化したのが、イリオモテヤマネコとかヤンバルクイナのような生物です。ある特定の地域に残されたものは、特殊な進化を遂げる。それは生物の種としてものすごく価値が高い。だから僕は、アートもそうした生物の成長の進化論に置き換えて考えているんです。数は少ないけれど、特殊な方向に向かっているからこそ価値がある。その顕著な例が浮世絵です。
北斎、歌麿、広重なんて鎖国されていた江戸時代に出てきたでしょう。もし鎖国がなければ、浮世絵がこんなに独自に高まることはなかった。閉鎖されたために特殊進化したんですよ。これって今の日本のマンガやアニメ、ゲームにもいえるんです。だけど最近では、インターネットが普及して国境がなくなっちゃった。そうなるとダメなんですよ。今までのような日本独自の文化が育ちにくい。いつでもどこでもだれにでも簡単に情報が手に入ると、特殊な進化が起こらなくなるんです。みんながマネするので飛び火してしまって、進化のエネルギーが薄まっちゃう。特殊進化するには、特定のところに閉じこめた生息圏が必要です。メディアアートが特殊であるためには、浮世絵的、漫画的、アニメ的な生存方法をとらないと。さもなければ画一化してしまって、やがてすたれてしまうかもしれません。
――メディアアートも絶滅種になってしまう可能性があるということですか。
生物の進化と同じように考えるとものすごくわかりやすいです。たとえば、オーストラリアには、東南アジアや中近東、アフリカなどにいた猛獣が存在しなかったために、カンガルーやコアラといった特殊な生物が自己進化していきました。でも、ここにライオンやトラをはなしたら、今のオーストラリアの生物は絶滅してしまいますよね。そのくらい生物の種というのはもろいんですよ。これをアートとして考えると興味深い。壁をとっちゃえば、全部一緒になってしまって、まず生き残れない。アートが手法としてのテクノロジーの画一化を乗り越えることが大切ですね。
――今後、メディアアートを発展させていくためにも、日本はアジアと連携していく必要があると思いますか?
インターネットが出てきて、海外の情報が簡単に手に入るようになってから、とくにそう思うようになりましたね。日本やアジアにはすごくいいものがあるのに、欧米のマネをしていたらダメになってしまう。歴史的に見て同じものはそんなに必要ないんですよ。お互いを認め合うには、自分たちの特殊な世界を自己進化させないといけない気がします。他人とは違うというのが楽しいのであって、似ているとおもしろくないんですよ。アジアには、西欧にはない太古よりの奥深い宇宙観をもとにした自然観、生命観があります。
西欧都市が形成されたヨーロッパには、あらかじめ決まった世界観があります。でもアジアは自然をそのまま受け入れて、さまざまな部分が干渉しあって世界をつくっている。それが大きな違いで、そこを理解しないといけません。“違い”というのは自分たちがより得意な部分でもあるんですよ。そこを徹底的に伸ばさないといけないのです。テクノロジーは世界共通だから、自分たちの“違い”を知って創作したほうがいい。
――それは若手のアーティストへのメッセージにもなりますね。
文化の方向を見すえると、エネルギーが分散しはじめていて、マンガ、アニメも含めて今後の可能性がものすごく少ない気がします。将来さらに独自のものが出るのだろうか。いかに普通の部分からはずれたものをつくっていくかが勝負ですね。これまでデザインとアートはねらいが違うものとして考えられてきた。たとえば、道具としてのコップのデザインなら、量産できてフォルムがかっこいいとか、そういうことが重要になりますよね。だけど、もしこれがアートだった場合は、飲むとグサッと刺さって血が出るくらいにトゲトゲしい形をしているとか、逆さにしたほうが飲みやすいといったトリック的に特殊なコップでもアリなんですよ。アートは安全性とか量産性ではなく、特殊性や創造性が魅力の根底にあったりしますが、それがやがて世界の標準的なデザインになる可能性もあります。
アートは人のためにやるわけじゃないから、自分が一番やりたいことをやることが大切です。それから現実の自然の世界との対話も必要で、人工の世界だけではなくて生きた自然、いわゆる秘境とかね、海の世界、山や川、ジャングルや宇宙。そういったものと対話するってやっぱり重要ですよ。コンピュータ室だけにこもっていたらアイデアは出てこないような気がします。
取材・文:岸田 麻矢
写真:田附 愛美


