Vol.6 高谷 史郎

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文化庁メディア芸術祭の10周年記念で行われたアンケート企画「日本のメディア芸術100選」において、5つもの作品が選出されている、日本人アーティスト・グループ、ダムタイプ。1984年、京都市立芸術大学の学生を中心に、演劇、ダンス、映像、美術、音楽、デザイン、建築など、異なるジャンルからのメンバーによって結成され、高度情報化社会やジェンダー、記憶といったテーマを表現してきた。 いまなお国際的な評価を受けつづけているダムタイプのビジュアル・アートの分野を一手に担っているのが、日本を代表するマルチメディア・アーティストの高谷史郎氏だ。自らの作品『optical flat』(2000年)を展示中の「ライト・[イン]サイト― 拡張する光、変容する知覚」展(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]、2009年2月28日まで開催)の会場で、ダムタイプや個人の活動についてじっくりうかがった。

[Interview1] ダムタイプとの出会い

——映像や音響、コンピューター制御された舞台装置やパフォーマンスによる、さまざまな作品を発表して、特に90年代、活発な活動をみせたダムタイプに、伝説的なアーティスト集団という印象をもつ若いアート・ファンは多いと思います。高谷さんは、そのダムタイプを、映像やインスタレーションなど舞台効果の分野でけん引されたわけですが、まずは、アートとの関わりのはじめの頃を教えてください。
子供の頃から、絵を描いたり、版画を制作したりという、いわゆる学校の授業で習う「美術」も好きだったんですが、どちらかというと、科学やデザインに興味がありましたね。もともと親戚の叔父に、車のデザインをする人がいて、「デザイナー」という職業があることも知っていたので、学校の文集で将来なりたいものを書く時は「科学者」とか「デザイナー」なんて書いていたような気がします。

——大学は、京都市立芸術大学のデザイン科に入学していらっしゃいますね。
その頃は、プロダクトデザインがしたくて美大を受けたんです。ちょうど高校生の頃に、「バウハウス」(第二次世界大戦前に、ドイツのワイマールに設立された美術工芸学校)を知ったんですよ。それで、「これはスゴイ!かっこいい!」と思いまして…。まあ、あれはプロダクトも全部含めた芸術運動でしたが、なかでも彼らの建築に惹かれました。だから中学生の時は、ダリの絵画などが好きで「スペインに行きたい」なんて言っていたんですが、高校生の頃は、「ヨーロッパなら、やっぱりドイツだろ!」ってなっていましたね(笑)。

——そして入学された京都市立芸術大学で、後のダムタイプにかかわるわけですが、きっかけは何だったのでしょうか?
ダムタイプの前身は、京都市立芸術大学の演劇サークルで、寺山修司さんなどの作品に影響された、アングラというか、すごく実験的でアーティスティックな演劇を上演していました。僕は演劇には興味がなかったので、本当なら接点がなかったはずなんですが、ちょうど僕らが入学した頃、そのサークルの3回生や4回生の人たちが、もうちょっと違う、新しい展開をしようと思っていたみたいで、それで誘われたんですよ。僕もなぜそこに入ろうとしたのか、未だにはっきりとはわからないんですが、舞台美術というのは、照明であるとか、セットであるとか、どこか造形の大きな実験室みたいで面白いかな、という感じで入ったんだと思います。

——ということは、ダムタイプというのは、当初は大学のサークル活動だったんですね。
そうです。当時はまだダムタイプとは呼んでいませんでしたけど。いつも大学の食堂の一角が、主要メンバーの古橋(古橋悌二 ※キーワード2参照)とかが集まるたまり場になっていましたね。メンバーのみんなは、自分たちの学科の制作室にいるよりも、ずっと多くの時間をそこで共有していたと思います。

——ダムタイプのパフォーマンスは、どのように生まれたんでしょうか?
僕が入った年に名前が「ダムタイプ」となったのですが、芸術家集団とは言いつつも、発表の形体は舞台でのパフォーマンスが多いだろう、ということで、はじめは「ダムタイプ・シアター」と言っていたんです。でも、僕が卒業する頃にはダムタイプの前身だった従来の演劇的要素もなくなっていたので、「もういらないよね」という感じで「シアター」を完全にとりました。

当時は、マルチメディア・アーティストの先駆者といわれるローリー・アンダーソンの噂などを聞きつつ、ミュージシャンがライブでおどろおどろしいパフォーマンスをしていた実験的な時代。僕らは、まだビデオ・プロジェクターは使えなかったので、スライドなどを使ってパフォーマンスをしていました。当時から社会的なテーマを扱うことは多かったですね。たとえば「ニューファミリー」についての考察とか。いま、家庭がどんな風になっていて、これからどう崩壊していくのか、といったことを、批評するわけでもなく考察していく。「おなかがすいた」とか「何を着ていこう」とか、家庭のなかで使用されているであろう日常会話の短いフレーズをピックアップして、それを音として使い、分断化されたストーリーを作っていくんです。

——そうしたイメージというか、アイデアはどうやってつくられていったんですか?
その頃、音楽を作っていたのが古橋でした。ダムタイプのパフォーマンスはシナリオがない分、音楽が時間軸を決めていく部分が多く、そういう意味では、さまざまなアイデアが古橋の音楽から生まれましたね。でも逆に、「こんな映像がある」といって、それにあわせてパフォーマンスをつくっていく、ということもありました。ただ、本当にメチャクチャに時間をかけて、いわば不合理な作品のつくり方をしていましたから、普通に舞台作品プロデュースしている人がダムタイプにかかわろうとしたら、きっと頭がおかしくなってしまうでしょうね(笑)。それなのに、誰がダムタイプを統制するというわけではなく、先輩後輩にかかわらず、すべてのメンバーの意見が、全員納得できるかたちでうまくまとまっていた。すごいバランスだと思います。

——けんかのようなものはなかったんですか?
そういうのはなかったですね。そこは面白いな、と思うんですが、たぶんどんな作品でもどんな組織でも、いい作品やいい組織ができる瞬間というのは、そういうことはあまり起こらないと思うんです。たとえば、「こんな映像はどうだろう」と提案したとしたら、「あ、それ面白いね。それなら、こういう内容をつけたらいいんじゃない?」、という風にどんどんアイデアが出てくる。最後に「でもやっぱりこれではまとまらないからこうしよう」というどんでん返しはあるにしても、けんかにはなりませんでしたね。

——いまのように映像をCGで何でも作れるわけではない時代だったと思いますが、ダムタイプの映像は、どのように制作していたのですか?
僕は、もともとダムタイプのチラシなどのデザインを担当していたんですが、なぜか照明をやるようになり、いつの間にか古橋に習いながら映像を作っていました。当時は、すでにビデオ・アーティストのナムジュン・パイクさんも活動していましたし、それなりに技術も開拓されてはいたんですが、僕らにとっての一番の問題は、自分たちのような学生が、買うなり、レンタルするなりして機材を使えるかどうか。家庭用のビデオカメラがやっと出はじめたころで、ダムタイプの記録を映像で残すにも、スタジオを借りてやらないといけないような時代だったんです。ですから、とにかくビデオであるとか、スライドであるとか、自分たちが使える機材をいかにうまく使うか、そして何が本当に面白くて、どうすればそれらを表現することができるのかをすごく考えていた時代だと思います。

実際の制作では、いまだったら4面マルチディスプレイでつくるような画像を、ちゃちな編集機材でふたりで仕上げていましたね。1時間分のビデオをつくるのに、何十時間も手作業でコツコツやっていました。映像というのは、パフォーマンスの内容や音楽が決まらないとつくれないので、最後はいつも時間がなくて、海外ツアーの飛行機のなかでスライドつくったり…。そんなことができたのも、若かったからですね(笑)。

——映像をつくるにあたって影響されたものはありましたか?
とにかく最初の頃は、映画の話をしていたような気がします。次はこんな作品をつくろう、という話題のときは、タルコフスキーのあのシーンのような照明にしよう、とか、フェリーニの『8 1/2』のあんなシーンがいいんじゃないか、とか、そういうのが共通のネタになっていましたね。そのころ、まだ名画館とかがあって、夜通し3本立てとか4本立てを見に行っていました。いまだったらミーティング中にインターネットとかでキーワード検索すれば、映像が出てくるかもしれないけれど、当時は映画館で前もって見ておかないと、話についていけない。大変だったけどよく考えると、とても実り豊かな時代だったと思います。

——ダムタイプというと、外国でも大変評価された日本のアーティスト集団、というイメージがありますが。
ちょうど、新しいパフォーマンスの動きが世界で起こってきた頃で、そのタイミングに合っていたんですね。その中でも、けっこう緻密に構成されたメディアとパフォーマンスのコラボレーションということで、珍しかったんだと思います。日本って、ヨーロッパでは未だに「ミステリアスな国」と思われたりしているんでしょうが、そんな日本人の作品なのに、意外に彼らにも「わかった」ということなんじゃないかと。日本固有の表現で固有の問題を取りあげているのではなく、共感できる内容を共通の方法で、そしてまた言葉よりビジュアルに重点をおいた分、言葉の壁もなかったと思いますし。ヨーロッパには、演劇やダンスのフェスティバルがたくさんあって、その主催者は常に面白いパフォーマンスを探しているので、そういうところで「これ面白いね」って、引っぱってもらえた、という感じじゃないでしょうか。

[Interview2] ダムタイプからソロでのアート活動へ

——そうした活動のなか、1995年、ダムタイプのリーディング・メンバーであった古橋さんが、35歳という若さでお亡くなりになりました。それはダムタイプにとってどんな変化をもたらしたんでしょうか?
古橋の死は大きな喪失だったし、やはりすごく変わりましたね。その後のダムタイプは『memorandum』や『Voyage』といった作品をつくりつづけていくんですが、作品の表現は精鋭化したと思います。それを古橋以前、古橋以降、というのではなく、メンバーの意見をまとめることがうまかった古橋がいなくなったのと同じようなタイミングで、革新的なメディアが次々と出てくるような時代も終わったんですね。そうすると、表現は自然と、以前やったことを、どんどん突きつめて、研ぎ澄ましていくような傾向になっていきます。もちろん、それが悪いというわけではないのですが、外から見ているとあまり動いてないように見えるんじゃないのかな?

(左より)坂本龍一+高谷史郎 『LIFE - fluid, invisible, inaudible ...』 NTTインターコミュニケーション・センター[ICC] 2007 photo:福永一夫

——高谷さんはソロの活動も活発ですが、近年の坂本龍一さんとのコラボレーションはどのようなきっかけではじまったのでしょうか?
最初のきっかけは、1999年に坂本さんの『LIFE』というオペラ作品の、映像ディレクターの依頼をいただいたことでした。

2007年には、山口情報芸術センター[YCAM]の委嘱で坂本さんとのコラボレーションで、『LIFE - fluid, invisible, inaudible ...』という音と映像の作品を展覧会として実現させていただき、それを同年にNTTインターコミュニケーション・センター[ICC]に初めて巡回することができました。これは1999年の『LIFE』の素材なども使って、「構成がないように」新しく構成し直そう、という話からはじまったんですが、作品タイトルにもある、「流動性」「見えないもの」「聞こえないもの」というキーワードを設定し、特に「流動性」を重視したインスタレーションをつくりました。

これは加湿器の技術・ウルトラソニック(超音波)で霧を発生させ、そこに映像を映しだす、というものです。たとえば、真っ白の四角いスクリーンに映像を投影すると作品のクオリティは上がります。でも、映像のクオリティが上がると、今度は内容が重要になってきて、とても説明的になってしまう。

そこで、「生命の起源」である水で霧に映像を映すことで、その場で発生するような映像体験ができないだろうか、と考えました。霧がスクリーンだと、はじめは映っていても、霧が無くなれば映像は消えてしまうし、霧の流れが変われば映像も変わる。だから二度と同じ映像に出会えないわけです。その瞬間だけ発生した映像のパターンをお客さんが体験する。そういう映像の見えかたが大切だと思ったんです。

坂本龍一+高谷史郎 『LIFE - fluid, invisible, inaudible ...』
NTTインターコミュニケーション・センター[ICC] 2007
photo:福永一夫

——その他の活動はどのようなことを?
いま、ダムタイプは、個人の活動が中心になっているのですが、僕自身は、先日、「世界演劇祭(Theater der Welt)」というドイツの舞台芸術フェスティバルで新作パフォーマンス制作の機会を得て、数人のメンバーとドイツに行き、1カ月ほどレジデンスして作品をつくってきました。非常に恵まれた制作環境で、充実した作品ができました。(タイトル:『Die Helle Kammer(明るい部屋)』)

あと、いま、個人的には、写真というか、光学的なものに興味があるので、デジタルではなくフィルムによる写真を撮って、写真展などもしています。

『optical flat』と一緒に

ただし、こちら(「ライト・[イン]サイト」展)に展示している『optical flat』という作品は、デジタルカメラで撮った画像をデータとして使用しています。これは、記憶のメタファーとしての膨大な画像が、液晶ディスプレイに瞬時に映しだされる作品で、基本的にはダムタイプの舞台映像と同じ手法で制作したものです。コンピューターの中で操作していく画像は、写真のようにプリントアウトするのではなく、やはりデータのまま使うのが合っているような気がします。

[Interview3] メディア・アートの可能性

——メディア・アートというと、どうしても最先端のテクノロジーを駆使する、というイメージをしがちですが、『LIFE - fluid, invisible, inaudible ...』で霧を使用したように、自然もどんどん取りこんでいるんですね。
そうですね、ビデオのテープのなかだけで作品を発表している人は、もちろん霧を使ったりすることはないでしょうが、アートに興味がある人であれば、いろんな展開ができるのだろうと思います。

そもそも僕は、自分がメディア・アーティストであるという自覚があまりないんです。メディア・アーティストだからこれを使わなければいけない、といったメディアのこだわりがないんですね。たとえば、去年、坂本龍一さんと、京都の大徳寺というお寺の庭で、坂本さんの音楽と僕の映像によるライブを行ったんですが、お寺があまりにも静かで、ビデオ関係の機材を使うとプロジェクターのファンなんかがうるさく感じられるほどだったので、モーターでいろんな角度に動かせる大きな鏡を3台置き、だんだん夕暮れになっていく庭の景色をサウンドにあわせて映すことにしました。ビデオは使いませんでしたけれども、僕はこれもメディア・アートだと思うんですよ。そんなに堅苦しくメディアを固定しなくてもいいのではないかな。

——高谷さんの創作は、何か興味深い技術があって、その技術ありきではじまるのでしょうか?それとも、まずアイデアがあって、これを実現させるために技術を使うのでしょうか?
やっぱりアイデアですね。たとえばいまも「3Dでこういう技術があるから、なにかつくらないか?」なんてヨーロッパの知人に言われているんですが、そう言われてもすぐに作品はできないんですよね。技術があったとしても、こっちに「つくりたい!」という欲求が生まれなければ、「ふ〜ん。3Dでねえ…。」みたいな反応になってしまう。でも、何かぴたっとくるアイデアが出てきたら、「ああ、じゃあ、これが使えるね。」って、ぱぱっとつながっていく。それが、作品のできる瞬間だと思います。

——アイデアを実現化するために、技術の業者さんなどを探したりするんでしょうか?
はい、それはもちろん。この点はインターネットができてすごく楽になりましたね。何か作品で使う特注品をつくってもらうにしても、昔は、会社にコンタクトがとれるまで、知り合いに頼んで誰かを紹介してもらって…、と本当に大変でしたから。まあ、おもしろかったといえばおもしろかったんですが、いまはインターネットでバーっと調べて、「こんなものをつくって欲しいんですが、できますか?」と問い合わせて、反応がよくて、やりとりがしやすそうというところをチョイスすることができる。昔は選択肢がなかったので、業者さんに「それしかできない」と言われたら、それでお願いするしかなかったんです…。また、そういう検索中に新しい技術に出合う可能性も多くなりました。探しているところに「こんなのできますよ」と書いてあったら、「あ、これは!」なんて思って、そっちの方にバーっと行く時もありますね。

——業者さんとのやりとりは大変そうにも思えますが。
僕は大学を卒業した後、建築事務所に就職していたことがあるので、業者さんとの対応は苦にならないんです。というか、むしろ楽しいんですよね。彼らが納得して仕事をしてくれれば、いいものができることはわかっているので、職人さんたちをいかに説得できるか、というコミュニケーション能力を身につけることも、作家として重要なことと思っています。それに今は、そういうことができないと、思うような作品はつくれないんじゃないかな。マルチメディア・アーティストのなかには、自らプログラムができる人もいるけれども、自分以外のプログラマーと作品をつくる人もたくさんいるじゃないですか。自分に協力してくれる人たちとの関係を、いかにうまく保ち、やりたいことをどううまく伝えられるか、ということは、実はアーティストにとって必要なことなんです。

——高谷さんのようなメディア・アーティストになりたい人はたくさんいると思います。そんな若者たちへのアドバイスをいただけますか?

う〜ん…。僕、大学での先生とかやっていないんですね。なぜかというと、自分はまだ教えてほしいと思っている人間だから。職人さんとのやりとりが楽しいのも、いろいろなことを教えてもらっている感じがあるからなんです。だから、これからメディア・アーティストになろうとしている人に対して「これだ!」ってことは言えないんですが…、ただ、やはり「本物に接してほしい」というのはありますね。大自然なら大自然でもいいですし、アートっていう文脈でいえば、絵画作品でもなんでもいいと思います。

たとえば、アーティストになる、ということは、自分はどういう体験をアートとしてつくり出せるか、ということなんだろうと思います。その根底には、自分がものすごく感動した風景や、目を覚まさせてくれるような作品に出合った体験があって、僕はそういう作品を生みだしたいんだけれども、まだつくり出せていないから、未だにアーティストをやっている。人に感動してもらう作品を創造するためには、まず自分が本物をしっかりと見て、感動することが大切でしょう。

いま、アートでもデザインでも、過去に「良い」と言われたものを、ちょっと変えて出すようなコピーがすごく増えているんです。それなら、やはりコピーされる前のオリジナルを見るべきだと思う。簡単にコピーして少し変更を加えて「はいできました」とつくった小手先の作品は、見る人にもすぐわかると思うんです。ですから、できるだけ本物に接して感動を得、その体験をもとにアーティストとしてさまざまな表現に挑戦していってほしいと思います。

取材・文:木谷 節子
写真:田附 愛美
取材協力:NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]


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