山根青鬼
(やまねあおおに)
1935年東京都生まれ。1949年富山県の『北日本少年新聞』に4コママンガ「北日坊や」を連載してデビュー。 師匠は「のらくろ」の作者、故・田河水泡氏。双子の弟はマンガ家の故・山根赤鬼氏。
代表作に「おやじバンザイ」「名たんていカゲマン」などがある。 受賞歴は1979年「ゆかいなふたり」で日本漫画家協会賞優秀賞受賞など多数。 1989年田河氏から「のらくろ」の執筆権を継承した。
おやじバンザイ
1968年~、少年画報社『週刊少年キング』
がんちゃん
1957年~、講談社『ぼくら』
でこちん
1961年~、少年画報社『少年画報』
なるへそくん
1965年~、少年画報社『週刊少年キング』
はらたちカッカ
1970年~、少年画報社『週刊少年キング』
名たんていカゲマン
1975年~、小学館『学年誌』『コロコロコミック』
弱冠14歳でデビューした後、1970年代後半には少年探偵に憧れる小学生たちのバイブルとなり、単行本の累計販売部数が60万部を超えるヒット作ともなったギャグマンガ「名たんていカゲマン」を世に送った山根青鬼さんは、2009年にマンガ家生活60周年を迎える。その間に生み出された原画は、およそ8万枚。これだけ長きに渡り、しかも膨大な数のマンガを描き続けることができた背景には、いったいどんな力が働いていたのだろう。ご本人にお話をうかがった。
―― デビュー作以降、すべての原画がお手元に残っていると聞き、とても驚きました。
必ず原稿を返してくださいと、連載が始まるたびに出版社に言ってきたおかげです。昔はよく、編集者が電車の中に忘れてきたとか、印刷所でなくしたとか聞きましたよ。だから僕は、紛失を避けるために返却を促してきたんです。他のマンガ家に聞くと、デビュー作の原稿なんて残っていない、なかには本すら持っていない、っていう人もいるくらいですから、全部揃っているのは珍しいのかもしれませんね。
―― 原画はご自宅に保管されているのでしょうか?
すべて自宅にあって、押し入れにびっしりと詰まっています。封筒に入った原稿が返ってくると、そのままの状態で押し入れの中に仕舞うんです。次に返却されたものは、その上に重ねる。そうすれば、封筒には何年何月と書かれてあるので、順序よく保管できます。
―― これまで、原画に関するトラブルはありましたか?
一度だけありました。「でこちん」を連載していたときのことです。夜中、自宅に編集者が飛んで来たんです。何事かと思ったら、印刷所で火事があって原稿が2枚ほど燃えてしまったので、すぐにその分を描いてくれとのことでした。ストーリーを思い出しながらひと晩で描き上げたのを覚えています。あのときは大変だったなあ。でも、倍の原稿料をもらえたからよかったけど(笑)。
―― ご苦労といえば、上京してからの数年間は、あまり仕事に恵まれなかったと聞きました。
僕は14歳でデビューして、17歳のときに富山から両親と赤鬼の家族4人で上京してきました。夜間の高校に通いながら、昼はマンガを描くという生活でした。当時、小金井にあった農家の豚小屋の2階を間借りして一家で住んでいたんですが、すごかったんですよ、においが。お金がないので、お腹がすいたらコッペパンをかじっては、臭い臭い言いながらマンガを描いていました。
―― 一緒に上京されたご両親は、身近なところでおふたりを応援されていたのですね。
両親は僕らに賭けていたようです。東京に行けば、マンガ家として成功を収めてくれるはずだと。僕と赤鬼には、好きなマンガを描いて暮らしていくという夢があったけれども、一方で、絶対にマンガ家にならなきゃいけないという無言のプレッシャーがあったんです。両親も必死でした。おふくろは外へ働きに出て、おやじはマネージャーのような仕事をしてくれてね。僕らを連れて新聞社や出版社をまわって売り込みに行ったんだけど、あのときは門前払いされて、まったく相手にしてくれなかった。描いても描いても儲からない、もうダメかもしれない。追い詰められた僕らは、マンガ家を辞めて、小金井のゴルフ場でキャディでもしようと思い、師匠の田河先生のもとへ相談をしに訪ねたことがありました。すると先生が『おまえたちにはマンガしかないんだ。辞めても何もない!』と一喝されて。
―― 厳しくも、愛情あふれる師匠だったのですね。
こんなこともありました。その当時、週に1回、弟子たちが先生のご自宅に集まって、いろいろと話を聞く機会があったんです。住み込みをしていた滝田ゆうさんもいました。僕らは4コママンガを持っていって見てもらっていたんですが、先生は良いとも悪いとも言わないんです。そうした沈黙が3年間続きました。それが3年目に突然『いままで持って来た作品は全部おもしろい』と褒めてくださったんです。石の上にも三年というたとえがありますが、よく我慢して頑張ったなって思いますよ。すぐに先生が出版社を紹介してくれて、いきなり連載を持つようになったんです。僕が「めだかちゃん」で、赤鬼が「よたろうくん」(1956年)。連載を機に、僕らの名前とマンガがマスコミや世間に知れ渡り、仕事が舞い込むようになりました。
―― そのような試練の時期が、数々のヒット作を生む肥やしになったと推測されます。ところで、いちばんお忙しいときには、月にどれくらいの連載を抱えていたのでしょう?
僕は9本。赤鬼もそれくらいやっていたから、合作を含めふたりで20本近くの連載をこなしていましたね。さらに本誌の連載に加えて、月に1本、分厚い付録を描いていました。いま考えれば実にわがままな話なんですが、仕事が多すぎて辛いから辞めようと思ったこともありました。マネージャーをしていたおやじが、たとえば20ページの仕事の依頼があったとしたら、それを10ページに抑えるよう交渉してくれたのでよかったものの、まともに引き受けていたら死んじゃってましたよ。
―― 過酷な状況だったのですね。
ええ。とくに当時はアシスタントがいなかったので大変でした。机を並べていた赤鬼と『忙しいからこっちを手伝ってよ!』なんて言い合ったりしてね。そんなことをしていたもんだから、いったいどっちが描いたか分からない作品がある(笑)。でも実際、ふたりで協力し合ったから乗り切れた部分はあると思いますよ。マンガ家仲間がよく言うんです『あんたらふたりで良かったね。ひとりだったら絶対に潰れていたよ』って。僕がこの歳になってまでマンガを描いていられるのも、田河先生や両親、赤鬼をはじめ、身近なひとたちの助けがあってのことだと、感謝しているんです。
―― 青鬼さんは1989年、赤鬼さんと永田竹丸さんとともに、『のらくろトリオ』として田河先生から「のらくろ」の執筆権を譲り受け、恩返しをするように、先生が亡き後も新作を発表していくことになります。
その年の5月に、先生と出版社と僕らの3者が、正式な継承を書面で交わしました。さかのぼって先生からお話をいただいたのが、確か同年2月のこと。それは手塚治虫さんの葬儀の場でした。応接間かどこかで、先生が僕らに向かっていきなり『きみたち「のらくろ」をやんないか?』っておっしゃったんです。驚きました。手塚さんが亡くなったから、「鉄腕アトム」は終わってしまう。自分が死んだら「のらくろ」も終わってしまう。先生はきっと、そのことをさびしいと思われたのでしょう。
―― 継承のお話は、迷わず承諾されたのですか?
そのときはもう、心の中で万歳をしていましたよ。けれども、葬儀中に威勢よく両手を上げるわけにはいかない。それに、さすがに責任の大きさをを感じて、二つ返事とはいきませんでした。オリジナルの「のらくろ」を壊しちゃいけないし、かといって先生は『私のを真似して描くな』っておっしゃるんですから。3人で『どうしようか?』って話になったんですが、最終的には、とても名誉なことだから引き受けようということになりました。
―― 田河先生もお喜びになったことでしょう。
先生が亡くなられる一週間前に、3人で入院先へお見舞いに行ったんですよ。点滴を打たれながらベッドで横になっていたにもかかわらず『冷蔵庫にあるビールを持って来なさい。きみたちの「のらくろ」誕生を祝おうじゃないか。乾杯だ』っておっしゃったんです。うれしかった。その後、3人3様の「のらくろ」が始まり、僕はいまでも『漫画新聞』に連載を持っているんですが、継承を引き受けたときに決めた、オリジナルを大切にしつつも自分なりのおもしろさを追求する、ということを、いまでも忘れずに心に留めています。2009年はマンガ家生活60周年を迎えます。(了)