水野英子
(みずのひでこ)
1939年山口県生まれ。1955年マンガ家デビュー。1958年上京、当時手塚治虫氏の住んでいたトキワ荘に入居。初の長編連載「銀の花びら」を執筆しながら、石ノ森章太郎氏、赤塚不二夫氏とU・マイアのペンネームで合作を発表。代表作に「星のたてごと」「白いトロイカ」「すてきなコーラ」など多数。1970年「ファイヤー!」
で第15回小学館漫画賞を受賞。現在、東京工芸大学芸術学部マンガ学科客員教授。
ファイヤー!
1969年~、集英社『週刊セブンティーン』
星のたてごと
1960年~、講談社『少女クラブ』
1960年に連載が始まった「星のたてごと」で、少女向けのマンガでは初となる男女の恋愛を描き、その後の「すてきなコーラ」で、同じく初めてロマンチック・コメディを取り入れるなど、女性少女マンガ家のパイオニアとして活躍してこられた水野英子さん。ロマンスを取り入れた魅力的なストーリーや異国を思わせる華やかな絵が、多くの読者を魅了してきた。そんな水野さんのデビューには、奇跡のような出来事が関わっていたという。秘話を明かしてもらった。
―― 手塚治虫さんの影響でマンガ家になられたと聞きました。手塚作品に最初に触れたのはいつごろでしたか?
初めて手塚先生の本を手にしたのは、小学3年生のとき。学校から帰ってきたら家に鞄を放り投げて、すぐに貸本屋さんへ向かうという生活を送っていたんです。そこであるとき見つけたのが「漫画大学」でした。読み終えたときにはもう“私はマンガ家になるしかない!”と、確固たる決意を胸に抱いていましたね。当時は貸本屋さんの他に学校の図書館にも入り浸って、少年少女向けの世界名作文学全集を読みあさっていました。本の虫だったんですよ。
―― 手塚作品のどのようなところに魅力を感じたのでしょう?
「漫画大学」のなかで扱われている先生の作品が、あらゆる種類のものだったんです。SFあり、西部劇あり、メルヘンあり、ミステリーあり。
普通、作家には得意分野がありますよね。けれども、手塚先生はジャンルを問わず描きこなされていて、その全部がおもしろい。さらに、絵が非常にみずみずしくて、きれいで、かわいくて。見たことのない世界を描いて魅力的だったんです。それと、なじみのある世界名作文学と同じくスケールが大きく、深い人間性や複雑な人間関係が描かれている点にも惹かれました。「漫画大学」の影響はすごく大きい。作中に“何でもごまかさずに描けるようになろう”とあるんですけれども、これは今でも私の座右の銘。“人がやらないことをやる”というのも、この本から教わったことです。
―― 小学3年生でマンガ家になろうと決意されて、すぐにご自身でも描かれるようになったのですか?
いえ、ペンを使って本格的に描き始めたのが小学5年生のときです。投稿するようになったのは中学に入学してからですね。手塚先生が審査員をなさっていた『漫画少年』に何度も作品を送りました。けれども、佳作までには入るんですが、掲載してもらえる入賞までにはなかなか至らなくて。そうこうするうちに地元の漁網工場へ就職が決まり、卒業を間近に控える時期になりました。ところが3月になって、大日本雄弁会講談社という見慣れない、恐ろしい名前のところから茶封筒が届いたんです。それは『少女クラブ』の編集者、丸山昭さんからいただいたお手紙で、初めての原稿依頼でした。
―― 投稿されていたのが『漫画少年』で、原稿依頼があったのが『少女クラブ』。両誌は出版社が違います。投稿から原稿依頼までに、どのような経緯があったのでしょうか?
当時、手塚先生の担当編集者をされていた丸山さんが、先生のご自宅で私の投稿原稿を見つけたらしいのです。ある日、先生が丸山さんに『「リボンの騎士」の次の連載は「火の鳥」の少女編をやりたい。調べたいことがあるので、天袋に仕舞ってある過去の原稿を探してくれ』とおっしゃった。そこで丸山さんは、膨大な量の原稿を引っ張り出し、無事お目当てのものを見つけて、元どおりに収めた。けれども、なぜかそこに紛れ込んでいた投稿原稿だけが1つ、片づけられずに残った。すかさず丸山さんが『これは何ですか』と聞くと、先生は『それは下関からの投稿で、描いたのは女の子なんだよ。丸さん育ててみたら?』とおっしゃったそうなんです。その投稿原稿は、フランスの片田舎を舞台にした、ひとりの女の子と3人の男の子の友情物語でした。それを見た丸山さんが『ちょっとしたものでいいので描いてください』と私に手紙に書いてくださったがきっかけです。まさに青天の霹靂でしたね。舞い上がったのを覚えています。
―― その偶然にして幸福な出来事が、デビューのきっかけだったのですね。ところで、海外を舞台にした作品が多いのはなぜでしょう? たとえば、1960年に『少女クラブ』で連載が始まった「星のたてごと」は、北欧神話を題材にしたラブストーリーでした。
少女期を過ごした戦後は貧しくて、身の回りにきれいなものがありませんでした。しかも、当時は男性のお行儀の悪さといったらなかったですね。おじさまたちが寄り合いに集まって、お酒を飲んではわいせつな歌をうたう。何かあると『女のくせに』と言ったり。そういう因習みたいなものが嫌いで、とにかくそこから抜け出したかった。いっぽう、向こうの小説なんかを読むと、豪華絢爛でロマンチックじゃないですか。憧れましたね。ですから、海外を舞台にしているというのは、そうした環境からの脱出願望や憧憬が影を落としているのかもしれません。
―― 「星のたてごと」が多くの少女たちに親しまれたのは、水野さんと読者の憧れが重なった結果だったのでしょうね。
そうですね。当時、多くの男性マンガ家が少女向けのマンガを描いていたなかで、女性の気持ちがわかる、同性の私が描いたということで読者に受け入れられたのだと思います。貧しいがゆえになかったもの、自分たち女性が欲しいものを描きましたから。そのころ、男の子を対象にしたマンガは活劇が目立っていましたし、少女マンガというジャンルはまだ存在していませんでした。しかも、男の子向けは男の子が主人公で、女の子向けは女の子が主人公。それらのことに違和感を持っていました。そこへ、映画や小説の世界だけだった男女の愛がマンガで表現されたのですから、きっと新鮮な驚きとともに迎えられたのでしょうね。
―― その他、水野さんが初といえば、1963年の「すてきなコーラ」で持ち込まれ、以降の少女マンガに影響を与えていくロマンチック・コメディがあります。また、登場人物の瞳のなかに星を描いたのも、水野さんが最初ですよね?
ロマンチック・コメディは「すてきなコーラ」が連載されていた『週刊セブンティーン』の編集方針で打ち出されたものでした。そこで明るくて楽しいロマコメ路線ができ、それから男女のロマンスが定着していき、ついには“ロマンが入っていなければ少女マンガじゃない”という風潮が生まれるきっかけにもなりました。けれども、瞳に星を入れたのは、私が初めてではありません。
―― えっ、そうなんですか?
ええ。実は7、8年くらい前に、そういう誤った認識を正していこうという目的で、ちばてつやさんなど10数人の先生方と『少女マンガを語る会』を立ち上げたんです。会員が集まって話し合い、録音もしました。少女マンガの歴史が語られているその内容を本にするつもりでテープ起こしまでしたんですけれども、まだ本になるまでには至っていません。で、星ではないのですが、初めて瞳に十字を入れたのは手塚先生だったと、話し合いでも話題にあがりました。今は何の作品だったか忘れてしまいましたが、きれいなドレスを着た王女様の瞳に、ちっちゃい十字が描かれていたんです。それと印象的なのが、石ノ森章太郎さんの「二級天使」。1954年に『漫画少年』で連載が始まったデビュー作なのですが、そこで大きな瞳に5つ星が入っていました。つまり、手塚先生や石ノ森さんといった先駆者がいた。それから動かない絵でいかに心を描写をするかに苦心した結果、いろいろと瞳の装飾が激しくなっていったんじゃないでしょうか。星も月もあって、人工衛星まであるんじゃないかというくらいでしたから(笑)。私が最初だとみなさんおっしゃいますけれども、違いますよ。間違ったことが世間に伝わっているようですので、それらをなくすためにも、近いうちに本を出したいですね。(了)