矢口高雄
(やぐちたかお)
1939年秋田県生まれ。1969年『ガロ』に投稿作品「長持唄考」が掲載されデビュー。1974年「釣りキチ三平」と「幻の怪蛇バチヘビ」で第4回講談社出版文化賞児童まんが部門、翌々年には「マタギ」で第5回日本漫画家協会賞大賞を受賞。1995年横手市増田まんが美術館を設立。2009年3月20日に「釣りキチ三平」の実写映画が公開。
長持唄考
1969年、青林堂『ガロ』
釣りキチ三平
1992年、東京書籍教科書『新しい社会 5下』
各地の自然を舞台に、ひとりの少年が釣りを通して成長していく姿を描いた「釣りキチ三平」。日本だけにとどまらず、海外にも多くのファンを持つ矢口さんの代表作。この作中にも登場した故郷に、矢口さんは、まんが美術館をオープンさせた。その背景には、原画と子供たちに対するある思いがあったという。詳しいお話をうかがった。
―― マンガ家を志されたのはいつごろだったのですか?
手塚治虫のファンで、小学生のときにはマンガ家になりたいという夢を持っていました。手塚作品を模写して自分でも描いていましたが、26、27歳くらいでスランプに陥ってしまいました。けれどもちょうどそのころ、『ガロ』に載っていた白土三平の「カムイ伝」を初めて目にして、いっぺんにしびれてしまったんです。そして絵柄を模写してみたら、予想外にうまくできたんです。それから白土三平に傾倒していき、作品を片っ端から買いまくって、読みあさりました。当時は、貸本屋が次々と潰れていった時代だったのですが、何軒も探し歩いて、白土三平の貸本を売ってくれないかと交渉して回りました。店仕舞いの間際でしたから、1冊50円とか100円とか安値で譲ってくれてね。そのとき集めた本は、今でも山のようにありますよ。
―― 手塚治虫さんと白土三平さんに影響を受けたのですね。
特に白土三平の作品に出合わなければ、今日の矢口高雄はいなかったといっていいでしょう。どうして白土三平の模写はうまくいったのか。それは後々気づいたんですけれども、白土作品というのは、Gペンを使ってシャープに力強く描く、直線的な絵なんです。ところが手塚作品というのは、優しく柔らかく描く、曲線的な絵なんですよ。僕の手首のスナップは、手塚治虫のような線を描くにしては硬すぎた。だからうまくいかなかった。自分の適性がわからずに26、27歳まで迷い、悩んでいたわけだったのです。
―― 銀行に勤めながら描いた「長持唄考」が『ガロ』に掲載されてデビューに至るわけですが、投稿先に『ガロ』を選んだのは、白土さんが「カムイ伝」を連載されていたからですか?
ええ。『ガロ』っていうのは非常に稀なマンガ雑誌で、多くの新人に自由に描かせて、育てていました。そのなかには、白土三平の他につげ義春や水木しげる、滝田ゆうがいたんです。その第一期黄金時代に「カムイ伝」と一緒に載せたい一心で描いたのが「長持唄考」だったんです。それが見事に入選して、掲載された。すごくうれしかったし、同時に自信を持つようになりました。『ガロ』には計5作品を発表して、デビュー翌年の1970年に銀行を退職。マンガ家一本の生活が始まるわけです。そのときはもう30歳になっていましたから、随分と時間がかかりましたよ。
―― 今回リメイク版ではなく『ガロ』に掲載されたオリジナル版のご協力いただいたわけですが
小説でもマンガでも良きにつけ悪しきにつけ、デビュー作にはその作家の全てがあると言われているそうです。だからこの「長持唄考」も、ある意味ではその後の僕の作品のほとんどが詰まっているとも言えるので、オリジナル版での協力を了解しました。
―― その後『ガロ』から『週刊少年サンデー』に活躍の場を移されるわけですが、ここにはどのような経緯があったのでしょう?
当時の『ガロ』の編集長に、銀行を辞めた旨を話したところ驚きつつも、翌々月に掲載されることが決定している「みなぐろ」の原稿を渡してくれて『原稿を持って、この人のところを訪ねなさい』と言って、大手出版社の編集長クラスの名刺を10枚くらい取り出して、紹介してくださったんです。そのひとつが『少年サンデー』の版元である小学館でした。そして『少年サンデー』の編集部に早速連絡をして、原稿を持って会いに行きました。ところが担当者は不在で、原稿を預けただけでその日は終わりました。次の日に再度訪問すると、若い編集者がニコニコと笑顔でこちらに近寄ってきて、僕にこう言ったんです。『君には、近いうちに華々しく『少年サンデー』デビューしてもらう予定でいるから』と。あまりに突然のことで、驚きました。けれども『少年サンデー』で活躍するにはまだ力不足だったようで、結果的にはうまくいかなくて。とはいえ、すごく順調に事が運んだと思いますよ。それから3年後に、講談社の『週刊少年マガジン』で「釣りキチ三平」の連載がスタートしましたしね。
―― その「釣りキチ三平」が大ヒットし、矢口さんの代表作になるわけです。ところで、当時原画はきちんと返却されてきましたか?
結構すんなりと返ってきましたよ。マンガ家のなかには、掲載した原稿は用済みだと考える人もいたようですが、僕はしっかりと管理していました。
―― どのように管理されていたのですか?
当初は自分で貸し出し帳簿を付けていましたし、その後はマネージャーに原稿の管理を任せていました。出版後の原稿というものを、僕は財産だと考えているんですよ。実はそれも白土三平の影響です。彼は原稿に、脱稿した日付けを必ず書いていました。作品が何年の何月何日に上がったという事実を、とても大切にしていた人でした。原稿を我が子のように扱う姿勢にも、僕はしびれたんです。
―― 個人で大量の原画を保存・管理されるとなると、スペースの問題もあってご苦労が多いのでは?
手塚プロダクションなど大きな所では、銀行の金庫室並みに耐火性のあるところに、10万枚以上あると言われる原稿を保管しているそうですね。けれども、僕みたいに個人でやっている人は、なかなかそこまでの資金がない。だからマンションの一室を保管場所にあてて、できる範囲で精一杯のことはしています。
―― 横手市増田まんが美術館にも一部の原画を置き、展示されていますよね。そもそも、美術館を設立しようと思われたきっかけは何だったのですか?
ひと言でいえば”未来のマンガ家のため”となるでしょうか。マンガ家を目指す少年少女たちが、そこで展示されている一流のマンガ家の原画に出合う。すると、どうやって描いているのだろうか?と考えるし、自分の絵との違いがわかって参考になるはずです。原画を鑑賞すれば、印刷物ではわからない細部も見ることができるので、とても勉強になるんですよ。本物を見ることが、どれほど自分の力になることか。それを未来のマンガ家たちに実感してもらいたいんです。
―― 美術館では、常に原画を見ることができるのでしょうか?
はい。現在約100人のマンガ家から集めた原画が300点ほどあるのですが、ただ、そのすべてを一度に展示しているわけではありません。展示スペースが限られているので、数カ月に1回の割り合いで展示する作品を入れ替えています。それにしても、こういう美術館なり博物館なり図書館なり、原画を保管して展示してくれるところがもっと増えればいいのになあと、つくづく思いますよ。僕が美術館をつくったのは1995年ですが、その1年前には宝塚市立手塚治虫記念館ができましたし、その後に石ノ森章太郎ふるさと記念館や石ノ森萬画館、香美市立やなせたかし記念館がオープンしました。徐々に輪が広がってきているけれども、まだまだ足りない。日本のマンガがこれほど大きなカルチャーになっているんだから、国や地方自治体にがんばってもらって”未来のマンガ家やマンガ・ファンのために”その輪をさらに広げてほしいと願っています。(了)