一峰大二
(かずみねだいじ)
1957年「謎のからくり屋敷」でデビュー。「七色仮面」「ナショナルキッド」「白馬童子」「ウルトラマン」「スペクトルマン」などテレビの実写で人気を博したヒーロー作品を少年雑誌でマンガ化。他にテレビで実写化された「卜伝くん」など著書多数。2005年『画業半世紀一峰大二大全集』で第34回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。
ウルトラマン
1966年~、講談社『ぼくら』
卜伝くん
1959年、秋田書店『冒険王』
ウルトラマン・シリーズなどテレビのヒーローをマンガ化し、マンガ版だけに登場する通称一峰シリーズと呼ばれる怪獣があるほど人気の一峰大二さん。今年でマンガ家生活53年目を迎える氏に、現在とは違う往時のマンガ界についてデビュー当時のお話を中心にうかがった。
―― デビューのきっかけをうかがえますか。
僕の師匠は「白虎仮面」など絵物語を中心に活躍していた岡友彦という先生なんですが、コマ割りも整然と並んでいることが主流だった時代から、現在のマンガに近い変形のコマを使うなど新しいことをやろうとしていた方でした。先生の所に原稿を持ち込んで、悪い所を指摘されて直すということを繰り返して2年ぐらいたった頃に、先生から『やってみますか?』と話があって紹介されたのが光文社の『少年』という雑誌でした。
昔マンガが悪書と言われていた時代もありました。一時は『そんなもの(マンガ)を読んでいると、勉強が出来なくなるぞ』という雰囲気があり、学校で子供たちの読んでいるマンガを集めてPTAの方が焚書するという事件も起きたぐらいでした。特に明治生まれの父にはマンガというか、絵を描いている姿が遊んでいるようにしか見えなかったらしく、マンガ家という職業が理解されず、僕は勘当された身でした。ですから電車賃もなく、日暮里から当時講談社の5階にあった光文社まで自転車で行き、入口の立て札を見て困ったのを覚えています。
―― どんなことが書いてあったんですか。
初めて編集の方にお目にかかるわけですから、失礼があってはいけない、せめて履物だけでもと思って、自分で作った下駄を履いていったら、入口に"下駄の方は草履にお履き替えください"と書いてあったんです。
下駄を自作するくらいですから草履なんて持っているわけもなく困っていると、守衛さんが『受付に頼むと草履を貸してくれますよ』と教えてくださったので、受付にお願いすると、新品の立派な草履を渡されました。それで履き替えようとしたら、自作の下駄の色が汗で足についてしまっていて、墨汁を塗ったように真っ黒な足になっていたんです。お借りしたものを汚すわけにはいかず、素足で入りました。もちろんエレベーターに素足では乗れず、階段を使って5階の編集部まで行きました(笑)。
―― では編集の方は足元を見て驚かれたでしょう。
恐る恐る扉を開けると編集会議で誰も居なかったんです。そのまま待っていると、編集の方々は原稿を取りに行く都合があってお目にかかれなかったんですが、編集長さんだけが戻ってこられて、自分の原稿について修正をしたほうが良い点をいろいろと指摘してくださったんです。そして最後に『主人公の顔が良くない』と言われてしまって、全部描き直しかと青くなっていると、『見本として主人公の顔だけ書いておいで』と言われました。自転車で何度も通って、ようやく420個目で『これがいい』と顔が決まって、それから全ページ描き直したんです。
これは、ずっと後で聞いた話なんですけれども、実は先生が編集長とお話をなさってくれていて、本当は載ることが決定していたんです。しかし、それを言ってしまうと僕のためにならないということで、420個もの顔を描かせて根性を確かめたみたいです。
―― 厳しいけれど、将来を思ってくれていたんですね。
ええ。その他にも先生にはデビュー作の口絵を作る際にプロとして大切なアドバイスをいただきました。
僕のデビュー作が使われたのが、48ページの付録でした。その当時の付録は、何人かで1冊を掲載するスタイルだったので、それぞれ作品に応じて口絵を描かされたんです。
僕の場合は主人公がお侍だったので紺色の紋付を着た少年剣士の絵を描いて、『いよいよ明日出版社へ持っていくことになりました』とご報告に伺ったんです。そうしましたら先生が、じっとご覧になって『確かに正確な紋付はかまがあっていいんだろうけれども、口絵というのは読者の印象に残るよう派手な方がいいんですよ』と、僕が紺色に塗ったところをポスターカラーで赤く塗りなおしてくださったんです。
僕はそれまで派手さなど考えていなかったので勉強になりました。それで赤い紋付の原稿を翌日持って行ったら無事に採用となり、昭和32年夏の増刊号の付録に載りまして、それが僕のデビュー作になりました。
―― デビュー以来、数々の作品を執筆なさっていらっしゃいますが、原画は残っていますか。
いいえ。出版社や印刷所の火事、台風による水害、出版社の倒産という形で原画も原稿料も何もなくなってしまうという事も経験しました。しかし一番の原因は、原画を返却してもらうという意識が昔はなかったことです。また、僕自身も出版された書籍が作品という感覚で、出版後の原画を粗雑に扱ってしまっていました。ですから、他のマンガ家さんから比べると、古いもので手元に残っている割合は少ないかもしれませんね。
―― では、今回ご協力いただい原画は貴重ですね。
お話を頂いた時代は、雑誌の本誌と付録に作品が跨って掲載されたりしていた時代ですから出版物も手元にないものがあるんです。特に「ト伝くん」は探していて持っている人が居たら貸してくれないか?と知り合いにも声をかけたんですが持っていないようでね。『冒険王』本誌の1961年4月号、1962年6月号と7月号、付録は1961年10月号、1962年6月号と7月号と、もう暗唱できるくらいになってしまっているんです(笑)。原画も出版物も手元に無くなってしまうと、作った本人でも困ってしまうなんて昔は考えてもいなかった。今になって原画を取っておけば良かったと少し反省しています。
―― では、現在の原画に対するお考えは変わったんですね。
今残っているマンガ家の皆さんの原稿は、将来貴重な物になると思うんです。
絵というのは不思議なものです。「のらくろ」や「サザエさん」のマンガを見て育ってきた僕らが、そういう画風や展開などと違う形でデビューして来ますよね。そこからまた、違う形のマンガ家が現れて、またそれを読んだ子どもたちが違う形のマンガ家となって現れる。戦後50年以上流れた間に絵を描く技術が下手になったという事はないんですよ。逆にどんどん優れた作品が増えてきている。先人たちの積み重ねがあったからこそ、技術的にも優れた物が増えてきて、新しいものが産み出されるんです。
ですから現在の原稿を残して行くことは、将来のマンガにとって少しでもお役に立てる可能性があるということだと思います。100年後には僕の作品はどう評価されるかわかりませんが、一人でも目にしてくれる人が居てくれれば幸せです。
また70歳を超えてもマンガを描かせてくれる方や読者が居るという事にも同じく感謝しています。
僕にとっては、どんな立派な墓標よりも作品が残って一人でも多くの人に読んでもらえる方が嬉しいんです。その為にも原画の管理も大切なんだと考えるようになりました。(了)