わたなべまさこ
(わたなべまさこ)
1952年「小公子」でデビュー。「ガラスの城」で第16回小学館漫画賞を受賞。その他にも代表作として「山びこ少女」「ミミとナナ」「ふたりのプリンセス」「白馬の少女」「聖ロザリンド」など多数。
サ・セ・パリ
1967年、集英社『マーガレット』
ばら色の真珠
1964年、集英社『マーガレット』
わたなべまさこさんは少女マンガの黎明期から活躍され、その後大人の女性向けのマンガも描くようになり、半世紀にわたって精力的にマンガを書き続けている。その功績が認められ、2006年には女性マンガ家として初の旭日小綬章を受勲された。わたなべさんならではのマンガの描き方、こだわり、またスランプの切り抜け方等をうかがった。
―― 戦後まもなく、玩具店や祭りや縁日の露店等で売られていたいわゆる赤本の原画を残されている方は少ないですよね。
ええ。昔は買い取りが主流だったんです。赤本は小さな発行元も多く原稿も返さないのが主流でした。だから、あの頃の原稿はほとんど残ってないです。大きな雑誌社でも原稿はマンガ家に返さなかったですね。私自身も、出版社に原稿を渡してしまえばそれは向こうのものという感じに思っていて、要求もしませんでした。
―― 月に何百枚も描いていた時代があったということですが、今まで何枚ぐらいの原画を描かれたことになるんでしょうか。
もうわからないですね。マネージャーを雇って原稿整理をきちんとしている方もいらっしゃるけど、私なんかはめちゃくちゃです。主人が陶芸をやっていて、窯場が那須にあるんですが、そこに全部置いてあります。
―― 那須のおうちに原稿が山積みになっているわけですね。
主人が私の部屋を中2階に作ってくれたんですけど、そこの戸棚にぎっしり入っています。別に分類してあるわけじゃなくて、ただ詰め込んであるだけ。でも、場所が良かったのか、カビもしませんし、わりあいきれいです。
―― マンガは昔からよく読まれていたのですか。
少年向けのマンガが主流の時代でしたから、小説や文学など本ばかり読んでいて、マンガはほとんど読んだことがなかったんです。でも、あるとき弟が読んでいた雑誌を読んでみたら、手塚先生の作品が載っていて、衝撃を受けました。絵に魅力があったのはもちろんですが、手法が新しかったんです。映画的な手法とかを取り入れた手塚先生のストーリーマンガを読んで、こういうマンガなら自分でも描いてみたいなと。
―― すぐにご自分で描いてみたいと思うところは、何か素養があったということでしょうか?
本を読むのもそうですが、お話をつくることも好きだったので、私の中には話のネタが大分たまっていたんです。頭の中ではストーリーはどんどん出てきました。それを表現したかったという願望があったのかも知れません。
―― 妊娠中に出版社に原稿を持ち込んだり、子育てをしながら月に何百ページも描かれていたそうですが、ハードですよね。
でも、マンガは家にいながら描けるでしょう。外に出なくてもできるから子育てしながらでも続けられたんだと思うんですね。
―― お子さんはお母さんの影響を受けて、絵を描くのが得意だったりしたのでしょうか。
絵を描くことはあまり好きじゃなかったみたいですね。妹が私のアシスタントをやっていたんですけど、彼女に学校の美術の宿題を手伝わせていました。あまりにも近いと嫌いになっちゃうんでしょうね。成長して医者になったんですが、医大では精密画はうまかったらしいそうで、安心しましたけど。
―― ところで、原稿用紙には何を使っているのですか。
ケント紙ですね。昔は全紙を買ってきて自分で切って使っていました。今は既製のものを使っていますけど、すべって描きにくい時もありますね。
―― 昔は既製のマンガ用の原稿用紙がなかったから、画びょう等で穴を開けていくという作業が大変だったと聞きました。
ええ、そう、大変なんです。今の原稿用紙にはちゃんと目盛りがついていて、穴を開ける必要はないですけどね。今のマンガ家さんが昔の原画を見たら、この穴は何だろうと思うのではないでしょうか。
―― マンガはどういう順番で描かれるのですか。
個々人によって違うと思いますが、私の場合は、まずストーリーを考えます。それから編集者と打ち合わせをします。で、了解をとりますね。それから、小説みたいに文章にしちゃうんです。吹き出しも情景も言葉で書きます。それをもとに原稿用紙にネームを入れていきます。マンガ家さんによっては、ここで2回ネーム入れをする方もいらっしゃるようですが、私は1回だけ。そうじゃないと生き生きとしたものが描けないんです。2回同じものを描くとダメなんですね。じかにどんどん入れていっちゃって、それからペン入れをします。ペン入れでは主線と吹き出し、柄、バック、そういうのを入れていって、あとはアシスタントの仕事になります。
―― 50年以上もマンガを描き続けていらっしゃるわけですが、マンガの魅力はどこにあると思いますか。
自分で何かをつくり出す面白さかしらね。この頃原作ものも随分描きますけど、泉鏡花とか、ああいうものは面白いですね。今は山本周五郎のものとか、松本清張のものとか、ああいうのを重厚なものを描いてみたいなと思っているんです。人間を描けるところがやっぱり魅力ですね。
―― 少女マンガ誌に掲載されていた頃のわたなべ先生の作品に出てくる女の子はとてもオシャレで華やかですが、当時あんな女の子は町中にはいなかったですよね。
もちろんいません。自分の創作です。女の子だったらこんな髪がかわいいかなとか、今度はこういう服をつくりたいなとイメージして描いていました。私の作品をお手本にして子供のお洋服をつくりましたとか、髪型をまねしたいとか、そういうふうなお手紙がよく来ましたね。
―― 作品の中の世界は、みんなの憧れだったんでしょうね。
そうでしょうね。しゃれた物も情報も少なかった時代ですから。
―― 昔と今ではマンガ家を取り巻く状況は違うと思いますが、どんな差がありますか。
今と比べて昔は仕事量がずっと多かったですね。雑誌の数も多かったし、連載でも3本ぐらいは常に持っていました。だから全然違うジャンルのものを描くことができたし、それがすごく勉強になりました。マンガというのはいろんな手法がありますからね。今の方は、1本作品を描くと、何年も続く連載や同じ感じのものをずっと描き続けている方がいますね。あれは逆に苦しいんじゃないかと思います。全然違うジャンルのものを描いてみたら、描いている自分自身も楽しいのにと思いますけど。
―― 今までスランプ等はなかったのですか。
全くないことはないんですけど、すごい壁にぶちあたったということもなかったような気がします。それはきっと同じようなものを描いてないからじゃないかなと。飽きっぽいんですよ。今回は捕物帳にしようとか、時代ものを描いてみようとか、外国ものにしようとか、そういうふうにいつも違うもの描いていたからあまりスランプがなかったんじゃないでしょうか。
―― 最後に、メディア芸術祭マンガ部門の審査員をやられた感想を聞かせてください。
ふだん私はあまり他の方のマンガを読まないんですが、審査員ということで、読んだことのないジャンルも色々読ませていただきました。随分とマンガの移り変わりを見てきましたが、やっぱり、マンガのもつ力や可能性はすごいと思いますよ。題材から表現方法までこんなのマンガがあったんだと、目を見開いちゃいました。すごいなあと思って、改めて感心しましたし、大変でしたけどいい刺激になりました。(了)